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寺小屋2009/12/01

吉祥寺


稲取小学校の前身、遷喬舎が設立されたのが明治6年の7月で、善応院に本部を置き、吉祥寺、清光院、栄昌院の3分教室とともに稲取の小学校教育がスタートしました。

きょう、ヤオハンの買出しの帰り道、そのお寺を参観してきました。先ずは、“いきいきセンター”の隣の吉祥寺。立て看板によると、このお寺は禅宗・臨済宗で本尊が釈迦牟尼仏だそうです。残念ながら、扉が閉まっていて拝観は出来ませんでした。でも、境内に立派な坐像がありました。これが大日如来坐像なのでしょうか?
 

善応院


次に稲取山善応院。立て看板によれば、伊豆八十八箇所霊場第三十二番札所で、真言宗高野山の末寺だったのを、後に曹洞宗に改めたそうです。開基はどうやら、伊豆の諸港に勢いを振るった熊野水軍、鈴木氏だったようです。石段の中間に庚申塔や西国三十三箇所観世音菩薩供養塔などがありました。
 

清光院


最後に月桂山清光院は両サイドのイチョウの木が印象的でした。高野山の修験者清光坊が薬師如来像を背負って当地に来たのが縁だそうです。臨済宗。

もう一つの栄昌院は入谷のほうなので、次回に訪問することにしました。総じて寺は小規模なものですが、狭い傾斜地に三軒もの寺が並んでいるのが珍しいですね。

帰途、散歩しているオバアサンが言ってました。「稲取名物、ならいの風に寺八つ」

 




ハナと寺子屋のなかまたち2009/12/03

ハナと寺子屋のなかまたち

<絵は小林豊さんの絵です>
「ハナと寺子屋のなかまたち 三八塾ものがたり」森山京作 小林豊絵

村の名主さまが、自分の孫娘と付近の子どもたち5人を集めて寺子屋を始めました。子どもたちはお習字の墨すりから始めて、読み書きそろばんを習います。

ある日、孫娘のハナが師匠であるおじいさんから、他の5人の子どもへの伝言を頼まれます。おじいさんの都合で明日の寺子屋は午前中お休みとなったのです。

子どもたちの家を全部は知らないハナは、教えてもらいながら次々に伝言を伝えてゆきます。そして、その中で家業を手伝う子どもたちの姿に触れ、外の世界を知るのです。

男の子たちはケンカもしますが、お師匠さんの言葉をよく守る素直な子どもたちです。やがて、今で言う父兄参観などを経て、着実に読み書きの力をつけてゆきました。

あるとき、お師匠さんが教育の一環として、遠足を企てました。約半里ある山中のひょうたん池を目標にしました。子どもたちはその日のために毎日歩く練習をします。

ハナと寺子屋のなかまたち

ところが、お師匠さんが足首を捻挫するハプニングがありました。引率者がいないので、あわや、計画は中止ということになりました。しかし、子どもたちは折角、練習してきたことでもあり、行きたくてしかたありません。

そこで、お師匠さんは細かい注意を与えた上で、子どもたちだけの遠足を許します。そして子どもたちはいろいろな事件をクリアして元気で帰ってきます。この辺はたくましく成長してゆく姿が感動を呼びます。

最後に、子どもたちの一人が家庭の事情で他の村に奉公に出ることになります。悲しい別れですが、実は、奉公先で仕事の腕を磨き、夜勉強もできる新しい人生への旅立ちなのです。感動的な別れの中に明るい希望が見えています。

家の手伝いをしながら、遊びに勉強に一生懸命な力強い子どもたちが生きいきと描かれて、清々しい気持ちになりました。また、素晴らしい挿絵が何枚もあって、イメージを膨らませてくれました。広く大人にもお勧めしたい児童書です。




栄昌院2009/12/05

栄昌院


あいにくの雨の中、入谷への坂を上って栄昌院を訪ねてきました。このお寺は稲取小学校の前身、「遷喬」がスタートしたときの寺子屋4寺院のひとつです。

明かりが灯った本堂は引き戸が少し開いており、ご住職が掃除の最中でした。正面台座に向かって合掌したあと写真撮影の許しを請うと、奥から戸板を出してきて、これは寺子屋当時のもので、子どもたちがいたずら書きしたあとだと見せてくださいました。

お許しを得て本堂に上がり、奥さまともども堂内を案内していただきました。教室として使われたと思われる部屋の柱や梁には墨で書いたあとが、そこかしこに見受けられます。

お嫁入りした奥さまが一所懸命洗い落としたそうですが、それでも綺麗にならなかったと言います。他にいたずら書きした机も残っているとのこと。机を並べたこの部屋で子どもたちは読み書きそろばんを習ったのです。

それから、山岡鉄舟の筆になるという書が掛かっていました。肖像入りの額もあり、大きな位牌まで見せてもらいました。鉄舟寺というのが清水市の久能山にあるとのことですから、他に何かの縁があるのでしょうか。

山岡鉄舟の書


その位牌の前に西山家累代霊の位牌があるのに気がつきました。ご住職の説明によると、村立稲取病院の初代院長西山五郎はこの本堂の脇に仮寓し、その前の診療所で診察をしていたということです。

栄昌院は稲取で一番古いお寺だそうです。昔はこの辺は田んぼが広がっていて、民家も数えるくらいしかなかったと言います。お嫁入りして50年、今は大変な変りようだと、奥さまは感無量の面持ちでした。

戸板の戯れ書き


境内に六角形に並ぶ六地蔵尊の塔が立っていました。ご本尊は「延命地蔵尊」です。合掌。



蛭子神社2009/12/06

稲取の蛭子神社
赤松神社、三島神社、蛭子神社は稲取の3えびすだと、赤松神社の古い立て看板に記されています。事代主命を祭って漁業の安全を祈った神社です。

他では、今井浜の磯に突出した茂みの上に、小さな蛭子神社があります。いつもそこの磯で私たちはお弁当を食べています。

稲取の蛭子神社はどんなものかと思い立って、散歩がてら見てまいりました。最新の一の波止場の付け根の部分に“岬の館”がありますが、蛭子神社はこの裏にありました。

思っていたとおり小規模な神社で、向って左に松の木が4本、天をついていました。狭い境内は、それでも低い石垣を巡らせています。祠は閉じておりました。

稲取ではえびす講の日(稲取では10月20日と1月20日だそうです)には漁を休むと聞いています。漁の安全を感謝する日としているのでしょう。

ところで、このえびす神社の境内の一角に貯水槽があるのを東伊豆町の看板で知りました。それによると、大規模な地震などの災害に備えたもので、60立方メートルの水が飲料水、消火用水として利用できるということです。

水に関係があるとされる蛭子神社の膝元に、よくぞ建設したものと感心いたしました。

海岸の風景32009/12/08

海岸の風景3
池尻海岸ウキウキビーチはこの夏、海水浴場として賑わいました。今はフロートも取り払われ、押し寄せる波が砕け散るだけの寂しい風景を見せています。

毎週火曜日には、私たちはよくこの風景を眺めながら、ヤオハンで買ってきた弁当を食べてひとときを過ごします。きょうは風もさほど冷たくはなく、ピクニックに耐えられる温度ではあります。

目の前にボートが浮かんでいました。ふと、少し離れたところに丸い桶が浮かんでいるのに気がつきました。すると、ぴょこんと人が浮き上がりました。

そしてまたすぐに潜ると、1分弱で姿を現しました。どうやら素潜りでサザエかアワビを採っている様子です。しばらくそれを繰り返したあと、手を上げて合図をすると、ボートが寄ってきました。

ボートに上がって暫くしたら、また海に入って潜り始めました。素潜りはそうとう疲れる仕事なのでしょう。それに肉厚の潜水服を着ていても、体は冷えるに違いありません。

私たちは海岸の風物詩だと、ノンキに構えて見るだけですが、当事者は大変な苦労をかけて仕事しているわけです。さて、この時期のサザエ、アワビは特段に旨いのかな?