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生きもの稲取紀行 続・・・2011/08/01

稲取漁港


孫と一緒に朝の散歩に出ました。きのうは“ふれあいの森”でアオダイショウに驚き、帰りの黒根坂から黒根橋にかけて、マムシか何かの小さなヘビが車に轢かれてペシャンコになっているのを見つけました。

今朝は稲取漁港の見学です。市場前の岸壁で孫が目ざとく三匹の魚を見つけました。カメラに収めて帰宅してから、彼が自分で持参してきた図鑑を調べると三匹とも判明しました。
親バカならぬジジ馬鹿か知りませんが、彼は図鑑を繰って自分で探し当てたのであります。

私のほうは図鑑を見ても同じようなものが並んでいて皆目見当がつきません。それではと、写真をPCに取り込んで比べてみると、なるほど彼が図鑑で調べたのと三匹とも一致してました。

ウミスズメ


先ず、ウミスズメ。これは上から見下ろすと、何かの置物のようです。全長約15センチ。干からびて固まってしまったのでしょうか。次いで20センチくらいのショウサイフグ。こちらはまだ海から上がって古くはありません。両方ともフグの仲間でした。

ショウサイフグ


残るはカガミダイ。これは“とさか”が立派です。深海魚だそうで、成魚は70センチと書いてあります。三匹とも幼魚のようでしたが、釣り針に引っかかったんですかね。今朝は思わぬ収穫でした。


カガミダイ


池尻海岸と天王さんのおサルさん2011/08/02


池尻海岸



きのうの夕方に外でパンパンと音がしたのは久しぶりにサルが姿を現したからかなと思っていたら、きょう天王さんの坂を下りてゆくと、ミカンの皮が落ちていて、それも食い散らかしているので、やはりサルがお出ましになったようです。

ところで、ヤオハンの買い出しのあと、池尻海岸に出て久しぶりのピクニック。5月だか6月だかにショベルが磯を一部平らにならしていたので、私たちの“動物園”から愛らしい動物たちが姿を消してしまいました。小象もカメも見当たりません。

その代り、この海岸におサルさんが一匹姿を現してくれました。珍しく磯の生き物を探しています。暫くここで遊んだあと、今度は天王さんの石段を張っているのを見つけました。身のこなしの素早いこと!



オカに上がったカッパ2011/08/03

陸揚げされた漁船
「今の若いもんは根性がねえよ」港は殆どの船が係留されています。陸揚げされている船も一パイや二ハイではありません。伴七じいさんのきつい言葉がつづきます。

「ワシらの頃は一度イカをやって上がってきたら、またすぐ出て行ってサバをやったもんだ。それが漁師ってものよ」最近の船は一か月何時間の漁をしているでしょうか?出て行っても僅かの時間で帰ってきてしまっています。これで商売になるのでしょうか?

獲れねえからしょうがねえだろ、と言う人もいます。あちこち漁場を追っても油の無駄遣いだ、というわけです。

「最近はどうも汐の流れがおかしいんだ。地球温暖化とかいって、海水の温度が上がっているからよ。こりゃあ、なんとかしなけりゃなんねえな」

先日、稲取港にイワシの大群が入り込んできたそうですが、サバやマグロが追い込んだからだと言います。そういう汐の流れが大事なわけです。

「こんな状態じゃあ、食っていけるわけねえから、きのきいた子なら都会へ出てゆくさ」しかし、この夏祭りには若い衆の活躍が祭りを盛り上げていたように見受けます。重い神輿の“これじゃどうだ”のもみ合いに肩を入れようとする年配者の姿も少なくはありませんでした。無論、すぐに他の人と交代してましたが、この意気込みが若い人たちに伝わらないはずはありません。

「大手の仲買人がいなくなったからな」私はこの港の市場で“セリ”の声を聞いたことがありません。伴七じいさんの云う“なんとかする”手だては見つかるのでしょうか。

磯で石投げ2011/08/06

8/4の池尻海岸は波も穏やかでした
きのうは稲取岬の“りゅうごんさん”から灯台に上がって帰ってきました。今朝は一望閣から“二つ掘り”下にまわって池尻海岸へ下ってみました。

磯遊びをするつもりだったのが、ちょうど満潮時だったことと波が荒いため、海岸への出入りは禁止でした。観光客はみな上のプールで遊んでいました。

孫と私の二人はそのまま志津摩海岸遊歩道までゆき、”よこおら”の波打ち際で暫く石投げに興じてから帰ることにしました。波が押し寄せて砕け散ると、風がシブキを運んでくれます。プール周辺は風がなく、水に浸かる以外には清涼を得ることはできません。でも、ここで水シブキを受けていれば時間を忘れます。

帰りのバスには、“銀水”の脇の急坂を走って国道へ上がり、間一髪間に合いました。小学校一年生の孫も逞しさを増してきたなと実感した今朝の散歩でした。

角力塚の”アイヌの墓”2011/08/07

アイヌの墓?
「ああ、あのお墓ね。コケシみたいなものよ。すもうづか(角力塚)は本当は“すくもづか”と云うの」

今朝は一望閣から吉久保へまわって、たまたま畑の草取りしていたオバチャンからその“すくもづか”の家の場所を聞くことができたので、思い切って訪ねてみることにしました。

“山神社の下の農道にアイヌの墓があるという”話は、monma さんから初めて聞いて以来一年がたちました。その間、近くの農道をぶらついたりして探したのですが、埒があきません。ただ、ミカン畑のなかにあるに違いないと見当をつけただけでした。

志津摩の風景を一年間にわたって写真で拾ってきて、今一応の区切りができ、さて次はと考えたとき、この一年前の宿題に思いあたりました。今年は入谷にするか・・・。

畑から上がってきた角力塚のご主人がわざわざ案内してくれた件の墓は、入谷道からミカン畑に入ってすぐの場所にありました。一坪位の広さを小石で囲った中に石柱が二つ並んで立っています。一つは四角柱の上に円球が一つ、もう一つは円球が二つ乗っています。なるほど、コケシのようにも見えます。それぞれに榊が供えられていました。

「もう20年前になるかな。明治大学、法政大学などの歴史研究の学生たちが見せてくれとやってきましたよ。でも、はっきりしたことは分からず仕舞いで、鎌倉時代のものではないかということだけだった」

「私らが子どもの頃に聞いた話では、ここでアイヌの人たちが相撲をとっていたので角力塚と名前がつき、この墓はその人たちの墓だということだった」

「そのうちに近畿大学の先生がやってきて、この墓の上の部分を掘らせてくれといって、ここのXXXという業者に掘らせたけど、特にこれといった成果は出なかったようだな。でも、それはこの墓云々ということではなく、例の飯盛山=卑弥呼の墓説の関係からのことだった」

この辺一帯は平らな台地で何をするにも優れた場所です。お宅はこのミカン畑の更に上の部分にあり、平らな場所が生計を得るための場所として確保されています。ここには昔、庄屋が住んでいたらしいとも聞きました。入谷の三大家が入植するだいぶ前の話です。

山坂が多い入谷にあって、そんな好条件の台地に大昔から人の関わった歴史があるのは必然でしょう。さて、何がしかの発掘作業でも手がかりが得られなかったとして、このアイヌ墓説という突拍子もない話にロマンを引きずってゆくとしたら、monma さんのご友人の説明にあるようにアイヌやアイヌ語を調べてみることも、その一助になるかも知れませんね。それと、墓石の形状からの割り出しも。