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ヤマハギ2012/09/01


茶の平遺跡がある台地の東斜面にはテッポウユリの群落とヤマハギが林立している箇所があります。テッポウユリはお盆が過ぎてから目立ち始めましたが、ハギのほうはそれと気づいたのは今シーズン今日が初めてです。
 


ところで、ハギといえば土手から枝垂れた先に点々と紅い花びらを付けた妖しい色っぽい姿を連想しますが、このハギは直立して天を向いています。調べてみると、ヤマハギは直立した落葉低木だと分かりました。

ヤマハギ


きょうは稲取では突然青空がかき曇り一雨も二雨もあって、お蔭で残暑から解放されています。しかも秋の七草の一つがお目見えしたとあって、季節が確実に移り変わっているのを実感いたしました。
 


それから、”荒巻”とは茶の平遺跡から農免道路にかけての南斜面を言うのであって、その下の大きなハウスが立っている窪地は最近開かれた場所で、どんな名前があるか分からないと、この場所で出会った農家の方(80歳)が言っておりました。新開地の”新巻”ではなかったのです。認識を改めねばなりません。
 

テッポウユリ


下平塚から藤が沢~見高へと抜ける道は昔からあった道で、この道から茶の平~現在の農免道路に出る道も細い道ながら古くから存在したと言います。この農家の方の話しでは、双方とも農免道路を造るための補助道路の役目があったということでした。国道から農免道路の現場へとショートカットで繋ぐために整備され、幅広い道になったようです。
 


「昔は、雨でぬかるんだ時などは“牛馬が膝で登って”きたほどの悪路だった」そこで石を張り詰
めたのだそうです。急な坂道ですから大変な作業だったと思われます。「コンクリートを剥がせば石がゴロゴロしているはずだ」いろいろとご苦労があったようです。

石垣2012/09/02


石垣



石垣造りに特別のこだわりがある入谷のミカン農家の方から、見高にこの方の作品があると聞き、本日行って見て来ました。
 


場所は伊豆見高入谷高原温泉の近くで、“I木工”の敷地でした。先ず、直線が強調された寸分の隙のない石垣に舌を巻き、次いで、園庭を取り囲む石垣の重量感、存在感に圧倒されました。
 


大小の石や岩を巧みに組み合わせ、城壁のようなRをとった曲線美が見事です。稲取には素晴らしい石垣が随所に見られますが、このI木工の敷地の石垣は実に味わいがあって、魅せられました。






吉久保遺跡2012/09/03

石器(石斧)
東伊豆町で公開している東伊豆町埋蔵文化財包蔵地の一つに吉久保遺跡というのがあります。この遺跡については近くの長坂にお住まいの方々もご存知なく、今までは場所も特定は出来ずにいました。それが本日、一望閣の周りの畑地であることが入谷の古老からのお話しでわかりました。

ご自分の土地の一部だったことから、農作業中に出土した5点を持ち帰り保管していたそうで、そのうちの3点が現在残っているというので見せていただきました。

写真の左のものは石棒のようなもので、先端の丸い部分が尖っています。全体に磨きがかかっており、磨製石器です。石斧かとも思われますが、横縞が印象的なので呪術にでも使用されたのかも知れません。

他の二つは打製石器で鋭い刃を何かに利用したのでしょう。いずれも大きさの割に重いものでしたから道具であることは間違いありません。ちなみに町が公開した埋蔵文化財包蔵地一覧表のコメントには出土品は縄文土器、石斧(打・磨)と書かれています。

入谷の古老が採取した5点は、お孫さんが学校の石器時代の授業で標本として持参した際、どういうわけか学校から戻ってきたのが写真の3点だけだったそうです。失われた2点のうち一つは三味線のバチのように扇形に開いた斧で、形の整った美しいものだったということです。

瑞雲坊2012/09/04

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入谷の古老(90歳)から聞いた昨日のお話のつづき。

京都の臨済宗南禅寺派の大本山、南禅寺は京都五山や鎌倉五山の上位にあり、最も格式の高い禅寺だそうですが、その寺から来たあるお坊様が入谷の高い所に上ってゴマの灰を撒いたところ、突如、水煙が立ったと言う。

そこでその場所に降り立ったところ、そこには泉と観音さまが一体あったそうです。この坊さまが吉祥寺の元祖、瑞雲坊。入谷の古老(90歳)は若い頃、この話しに興味を持ち、そのゴマを撒いた高みがどこか探し回ったそうです。しかし、結局わからず仕舞いだったとのこと。この泉のある場所が字西泉堂です。

泉堂は明治44年に水力発電所が建てられたところで、ちょっとした谷状の窪地になっています。去年この場所にお邪魔して、この脇を志津摩川が流れているのを見てきました。赤松神社の足下に造られたプールはこの志津摩川から取水したもので、これを放流して発電したわけで、発電所跡からその場所の辺りを見上げると、かなりの勾配がありました。

古老はこの泉堂の西側の“背”(古老は尾根のことを背と表現しました)の部分を更に西の谷側から、即ち、大久保橋を渡り大峰山の裾を通って細野高原に通じる道からも上がって探してみたんだそうです。付近の字は下から“休み石”、“大林”、“やまんた(山の田)”だそうで、ずいぶん広範囲に歩いたようです。字にしても、大林以外はグーグルやゼンリンの地図には載っていません。

私もせっせと付近一帯を歩き回ったことが古老のお話を理解する助けになっている、と喜んでいます。

遺跡が物語るもの2012/09/06

吉久保の背と谷
中川の橋を渡って一望閣へ出る手前の右手、坂の上に一軒の民家があります。そしてすぐその上に一望閣を巻くように細い農道がついています。時々その入口に細長い軽運搬機を見かけることがありました。

今回この道がどこまで通じているのか、ちょっとお邪魔してみることにしました。道は一軒の民家の上を横にゆき、更に一望閣の下を抜けると、その隣のキヌサヤエンドウの畑の下に通じていました。

実は朝の散歩では一望閣の前を上がって吉久保の谷へ出る時、いつもその畑の前を通るのが常でした。詰りその裏側に出たのです。南東側には別の野菜畑が広がっています。更に進むと、左にキヌサヤエンドウの畑を回り込むように道がついており、吉久保の谷へ出るいつもの散歩道に繋がっていました。

しかし、良く手入れされた農道はその左の道ではなく、まっすぐ谷へ向かっています。その道を辿ると、間もなく道は行き止まりとなり右手に小屋が現れました。上の写真の左側、中程少し下にある小屋がそれです。

行き止まりの先は竹藪です。中川の畑から川を渡り、竹藪のなかを上がって一軒の民家の上に出たのが昔の道だったと、以前聞いたことがありますから、多分、これを突破すれば中川に出るはずです。昔はこの先に道が通じていたのではないかと思います。

一望閣の隣の畑で種まきをしていた農家の方に訊くと、土器が出土した入谷の古老の畑はまさに小屋のある場所だということがわかりました。かくして吉久保遺跡の場所を特定することができました。

吉久保の上からこの小屋を見下ろすと、稲取の街とその先に海が広がっています。全体を遠望すると、一望閣や小屋のある辺りは南東に張り出した“背”に乗っているのが分かります。あの茶の平遺跡もやはり小さな尾根状の台地にありました。

双方とも湧水が近くにあり、稲取で先人が一時的にもせよ居住の条件としたのが他に何であったのか少し分かりかけてきた気がします。