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石切り場2012/10/01


一望閣から上がって稲取アルプスに出るところで、ミカン畑の細い道から軽トラが1台出てきました。よく見ると、いつも吉久保でお会いするMさんです。そちらの畑へ移動するところでした。
 


ここはスクモ塚と茶ノ木畑の間に位置します。もう少し入谷道に寄ったところは稲取の街や港を俯瞰する稲取随一の展望所です。Mさんはこの辺は字(あざな)ではないが、“石切り場”と呼ばれていたそうです。それが証拠に畑の中に切り出し寸前の石があると言って案内してくれました。
 


岩とも言えるような大石が石垣に並んで座っています。石には卍印が掘ってありました。築城石に関わった大名家の紋章でしょう。傍にはノミが入った痕のある石もありました。Mさんはこのノミの痕跡は今どき使われているノミの痕ではないと言います。

築城石予備軍



 


M
さんは昭和4年生まれ。16歳のとき終戦を迎えました。そして戦後の混乱期にこの場所で石切りを生業とする人の仕事ぶりを直に見てきたそうです。他所から稲取に来た人だったらしい。
 


その当時は家の周りに築く“おざれ石?”や石垣、墓石などの用に供していたとのことです。Mさんの石に対する思い入れの原点はここにあるのかも知れません。以前、当ブログで石垣についてMさんから含蓄あるお話を伺った旨の記事を書きました。見高入谷に彼の作品があるというので見に行ったりもしました。
 


ところが、彼のもう一つの作品が商工会横の公園にあると聞きました。この公園にある築城石は幾つかを組み合わせたもので、当時流れていた清水を引水して滝のように見せる設計だったとのことです。最初は56人で大川から石を運んできたものの、作品としては結局は二人で制作、それも主導したのはMさんだったと聞きました。
 


私が最初にこの公園を訪れたのは、この旧役場の上あたりに湧水があって昔、周りの住民の貴重な飲料水だったと聞いたからです。そのとき、面白い形にセットした築城石という印象がありました。それがMさんの作品のひとつでもあったのです。
 


偶然にも石切り場跡を見ることができました。やはり大川の谷戸山の築城石も見てこようと思ったしだいです。

「ダーウィンと出会った夏」2012/10/04

「ダーウィンと出会った夏」ジャックリーン・ケリー作 齋藤倫子訳 ほるぷ出版

舞台は自然の豊かなテキサス州の片田舎。11歳のキャルパーニャは7人兄弟のなかで4番目に生まれた唯一人の女の子でした。この子は他の子に比べて生物の観察への興味が人一倍旺盛で、博物学の研究に没頭している恐い祖父と或る日、急にウマが合うようになり共同研究者となります。

彼女は祖父と標本採集に夢中になるが、女の幸せは結婚して子供を産み育て、平和な家庭を築くことにあるとする母親によって手芸・料理の勉強を強制されます。時は1899年で、奴隷解放から未だ30年余りしか経っていない、しかも南部の古い考え方が残っている時代でした。

そんな悩みの中で彼女は祖父と一緒に植物の新種を発見します。そして、ただちにスミソニアン協会に新種認定の申請をしました。もし新種発見が間違いなければ、自分たちの姓を冠した学名が永久に残るという名誉を手にすることになるのです。それから数か月してクリスマスの2日後、ついに認定の知らせを受け取ります。

現代は女性も人権を取得し、男性と対等に自由に生きることができる時代です。でも、かつての時代の陋習や偏見をこうした物語で読んでみると、仕事、結婚、家庭を巡って女性が女性らしく生きるという問題は容易に答えを見出すことが出来ない永遠のテーマであることを認識させられます。

本書は高等学校の部の課題図書で、昆虫や植物の話と併せてアメリカ南部の富裕層の生活ぶりが窺え、楽しく読み進めることが出来ます。

稲梓から蓮台寺へ①2012/10/05


上原仏教美術館員の田島整さんが「伊豆の仏像を巡る」と題して伊豆新聞に連載記事を書いています。私は上原仏教美術館でたまたま二度にわたって説明を頂く機会があって、この方の歴史や仏像そのものについての優れた見識と情熱に敬意を持っていましたので、毎週日曜日の記事が楽しみとなっています。
 


先週は蓮台寺の天神神社大日如来坐像と四天王立像でした。そこで、今日は蓮台寺を訪ねてみようと思い立ち、ルートを次のように設定しました。
 


稲梓駅~箕作~横川~上大沢~大沢口~蓮台寺~天神神社~蓮台寺駅
 


地図を入念に調べた結果、横川から大沢口までピクニック気分で歩けると予想して出かけました。従って山歩きなど念頭になく、足回りは普段のウォーキングシューズです。山里歩きをのんびり楽しんで、最後に大日如来にお会いしようというわけです。
 


以下は気ままな山里の道中記です。どちらさまも我慢してお付き合いくださいますようお願い申し上げます。
 

 


稲梓駅を9時50分にスタート。落合1号橋を渡ると、橋の袂の畑でオバアサンが鍬を使っていました。この方にお会いするのはこれで3度目です。もっとも、先方さまにはご記憶がありません。
 


でも、平成3年の台風による出水には恐い思いをしたと聞くと、先ず、平成3年という年を忘れてはいないことに敬意を表したくなります。私の場合、どうも過去の年月をうまく記憶出来ないからです。バブルはいつごろはじけたか? アメリカの9.11は何年のことだったか? リーマンショックは? いずれも明解に答えられません。

高根白山神社


沢向うの小高いところに高根白山神社があります。その下に自宅があるので、そのときは気が気ではなかったとオバアサンは言います。ところで、高根白山神社には、旧来のお堂の下に一昨年でしたか新しくお堂が建ちましたが、その脇には古くから“歯”のお地蔵さまが立っているとか。
 


歯が丈夫なことは誰しも願うことですが、“歯”のお地蔵さまとはまた珍しい。この次の機会には是非とも寄らねばなりません。歯医者さんになるべくやっかいになりませんように。
 


相変わらず元気そうなオバアチャンと別れて、稲生沢川に出ます。川では釣り人が何人か長い棹を操っていました。こちらに頭を上げたので手を振ると、今日は全く駄目だね、と訊いてもいないのに声をかけてきました。人の良さそうな方です。魚影は確かにあるけど、うまくいかないという。釣りを知らない当方は何と答えたら良いか、戸惑ってしまいます。

稲生沢川


正面に見えていた地蔵山のふところに入って米山薬師を過ぎ、箕作の信号にやってきました。これより松崎街道に入ります。

稲梓から蓮台寺へ②2012/10/06


箕作の二股からは規模の大きい田園風景が展開します。先日の台風が吹き荒れたのでしょうか、倒れている稲が見られました。


相玉のコンビニで食糧を仕入れます。コンビニのおやじさんは蓮台寺に行くならと、今やってきた道を指さしています。この先の横川から入るつもりだと言うと、車なら途中でゴーストップ。その先は昔は通れただろうが、今は歩く人はいないのではないかという。当然、道はあるかないか分らないと言います。少し不安になりました。
 


台風が過ぎた後のじりじりした暑い日差しが戻ってきて、街道歩きには少し酷か、と思いながらも、きのう一日家に閉じこもっていたお蔭で気持ちだけは前向きです。やがて、バス停「庚申堂前」に着きました。そこの上に長い石段があります。本日初めての見どころ。面倒がらずに上がってゆきます。
 


この石段はお年寄りには無理ではないかと思えるほど急で奥行もありません。やっと境内に上がると、正面建物の柱に結び付けられた「伊豆八十八か所霊場」と書かれた旗が風に踊っていました。



境内の入り口右には枝を茂らせたイチョウの大木が天を衝いています。そして、正面の建物から左に回廊まで付いてもう一つの建物に繋がっています。右には独立したお堂が二つ建っていました。宿坊付きの庚申堂といった風情です。


由緒のある庚申堂に違いないと帰宅してからマピオンの地図を見ると、龍門院庚申堂という名前であることが分かりました。昔は多くの信者が出入りするお堂だったことを思わせます。裏手に回ると、少し上がったところに道が街道から上がってきていました。参道の石段の上下が危ないと感じた人は裏手から境内に回ると良いでしょう。
 


思いがけず古刹を覗くことが出来て、この小さな旅のさい先を飾れた気分になりました。この辺の街道は稲生沢川側に歩道があるので安心して歩けます。ただし、きょうは日差しが強く、日陰もありません。
 


下田セントラルホテルを過ぎた左手に「おふくろまんじゅう」の店がありました。店の奥でオバサンたちがお饅頭をつくっています。他に野菜の販売もしています。ここのお饅頭の評判は前から聞いていました。手ごろな3個入りを買いました。


陽気なカウンターのオバサンは、昔は蓮台寺へ相玉から山を越して行ったものだと教えてくれました。何でも、ここで作った醤油を蓮台寺で売りさばいたとか。また、北校(下田高校)へも子どもたちが通ったとのこと。しかし今は道がどうなっているかわからないとも。
 


お客が立ち寄って、「また来るからよ」と言いながら車で引き上げてゆきました。松崎へ観光でもしてきた帰りでしょうか。人気のある店です。きっとオバサンたちの人柄も買われているのでしょう。

稲梓から蓮台寺へ③2012/10/07


波夜多麻和気神社


「おふくろまんじゅう」の店を出てから間もなく、天神前バス停の先にまたもや神社がありました。民家の間を抜けてゆくと、これはまた一段と寂びた祠が長い石段の上に鎮座しています。取りあえず上がってゆきました。この石段も意地が悪いほど急で、充分に気を付けなければなりません。


拝殿と本殿が前後に並び、拝殿の中から本殿の扉にカギが掛かっているのが見えました。拝殿には横に長い額があり、文字は細かすぎ暗いので読めません。
 


写真を拡大したら、俳句が並んでいるのがわかりました。これらの句は其儘堂宗匠撰、清可?宗匠撰によるものです。どうやらここで句会が開かれたもようです。それぞれ俳号が付いており、かなり熱心なグループの集会であることが見て取れます。


残念ながら、流麗な筆致の崩し文字を正しく判読するのは容易ではありません。からくも読めたうちの一句だけを紹介しておきましょう。

「奥深き山の里あり梅の花 友月」
この作者は主催者の一人らしい。また、読んだ人たちは広範囲から来ており、相玉、箕作、北の沢、それに河津などの肩書がありました。
 


神社が建っている小山からは里の様子がある程度わかります。見下ろすと、刈り取ったばかりの稲がハザガケになって並んでいました。人の姿はなく、静かな落ち着いた田園風景が広がっています。


石段の上がり端の鳥居脇に大きな石柱が立っていて文字が刻まれています。風化した文字は「?夜多麻和?神社」。後で、ネットで調べたら、「波夜多麻和気(はよたまわけ)神社」でした。こんな神さまもいるんですね。火産(ほむすび)の神だそうですから、村人は火に感謝し火を恐れて祈ったのでしょう。

江戸時代には「相玉天神」「おぼいの明神」と称されていたそうです。「はよたま」が「はいたま」、そして「あいだま」と訛ったとの説があります。バス停は天神前となっています。毎年10月14日が例祭だそうですが、今でも行われているのでしょうか。
 


天神さまを出て少し行けば、いよいよ横川の辻です。観音温泉への看板に従って左に折れます。小さくない沢沿いの道をゆくことになります。緩い上り坂が続き、いよいよ山里に入った感じです。