<><><><><><><><><><><><><><><><><><>

きのみやさん2013/03/01

きのみやさん
「きのみやさんは子どものころよく遊んだよ。夏の暑いときにゃ、あそこにムシロを敷いてみんなで昼寝したもんだ」

「誇宇耶そば」の向かいの国道をはさんだ高まりには細い道があって、ちょっとした迂回路になっています。しかし、昔は迂回路どころか、こちらの方が本道(下田街道)だったらしい。

この“本道”沿いに“きのみや”さんがあります。木立が林立していてちょっとした杜の雰囲気です。しかし、中はコンクリートで石を固めた基礎の上に小さな祠が乗っているだけです。

「この山はよー、この上のTさんの山でよー。話を聞くと、最初は別の神さまだったというようなことを言ってたな」

以前にこの近くの人がこんなことを言ってました。熱海の来宮神社の祭神が河津へ旅をしたとき、ちょうど中間の水下のこの地で一休みされた。それがここの“きのみやさん”になった謂れであると。

久し振りに“杜”の中に入り祠の中を覗くと、中に木片が収まっていて何か字が書いてあったのが分かります。でも、今は“八”のようなのが見えるだけです。このあいだ見た浅間山の祠には家内安全と商売繁盛の文字が左右に書いてありました。つまり、一族の繁栄を願って氏神さまを祀るのはどこにでもあるということです。

きょうお会いしたオジサンは更にまたこんな話をしてくれました。
「人が通るのに邪魔だから木を伐ったと云うんだ。そしたら、そのあと大ケガをしたんで、やっぱり、きのみやさんのたたりだって」

「そいで云ってやったんだよ。木を伐って、おめえ、見通しがよくなったでねえか。きのみやさんだって、海が見えて喜んだだろう」

これを聞いて、Tさんはずいぶんと気が楽になったことでしょう。このオジサンは気の利いた慰めかたをしたなと感心したことでした。

オジサンはまた、やはり毎月一回きのみやさんに礼を尽くしているらしい、と言いました。
「いやなに、“苦しいときの神頼み”だね。神さまなんてみんなそうさ」

願をかける。そのためにお祈りをする。家内安全、商売繁盛、一族の繁栄を祈願する。心のよりどころを求めて代々に渡って引き継がれてきた、それが氏神さまなんでしょうね。

アヤメとジンチョウゲ2013/03/02

アヤメとサクラソウ



成就寺の石垣の花壇はジンチョウゲが満開で、ホンノリとした甘い香りを楽しむことができます。また、これはなんと、アヤメが咲いています。薄紫が上品ですね。西洋サクラソウが脇役をきれいに務めていました。

 

今月のお題目

今日も一日無事に過ごせた

これに勝る幸せはない


ジンチョウゲ


熊が沢を遡行する2013/03/03


入谷の大二郎さんは、バリカン山は「かがみやま」だと言います。その東側、熊が沢を挟んで吾妻権現神社のある山を「ごんげんやま」、そして、小鳥のランドマークがある山は「ゆくぼのみよ」(油窪の峰)とのこと。ちなみに油窪とは油窪の峰の裏側の窪地を言うらしい。
 


そんな話をきのう聞いて、きょうは「かがみやま」を久しぶりに登ってみようと出かけました。ごんげんさんの鳥居の手前でイノシシ小屋に人がいたので、ここで暫くイノシシの話しを聞いてから、鳥居から左へ熊が沢を渡ります。

吾妻権現神社の鳥居

 
見覚えのある管が縦横に這う熊が沢の小さな涸沢を渡り鏡山に取り付きます。前回はそこを左から巻きながら送電線6号鉄塔への道を上ったのですが、今回は直登するつもりでした。


ところが、立木に赤いテープが右手沢沿いに見えたので、急に沢を遡行してみたくなりました。ただし、岩ゴロの涸沢に下りて遡行するのではなく、右岸沿いに上へ抜けようということです。
 


道は右岸沿いにかすかに認められ、赤テープのガイドもあって崩れたガケを何とかクリアしてゆきます。大二郎さんからはまた、ごんげんさんの下あたりの涸沢にバクチ穴があると聞きました。大岩の陰にあるというので期待しながら遡行してゆきます。


<バクチ穴?>

しかし、それらしき所は何箇所かありましたが、これと特定できるところはありませんでした。それから、沢の上部に“ばんばさわ(婆沢)”という窪地があり、噴火口の一つと言われているとのことでしたが、これも特定は出来ませんでした。


<荒れた沢>

<ここは強引に突破>

かなり上部まで登ったところでトレースに従って大きな堰堤の前を対岸に渡り、左岸沿いに付けられた踏み跡を少したどった後、そのまま踏み跡のままに左岸の傾斜面を登って上に出ました。登り切った所は広いはっきりした道で、この東側がもう一つの谷になっていて、これが林の沢かと思われました。

<この堰堤から左岸に渡る。更にその先の「H10年上林の沢工事」と書かれた堰堤から左岸の斜面を登って下の写真のところへ出る> 


結局、出たところはゴミ焼却場が上にあるグラウンドの下でした。普通のペースだと30分くらいのコースで、今回は沢の様子を度々じっくり見ながらだったので、1時間ほどかかりました。


この遡行によって、熊が沢の源頭がどこかはっきりイメージすることが出来ました。また林の沢についても、最上部に深い谷があることがわかりました。


檻の中のイノシシ2013/03/04


権現線遊歩道を上がって鳥居の前まで来ると、左の檻の中にときどきイノシシを何頭か見かけます。姿がない日があまりないので、これをどうするつもりなのか疑問に思っていました。
 


きのうはたまたまこの小屋のオーナーに話しを聞くことが出来て、その疑問が解けました。先ず、イノシシの肉が食用に適しているのは正月までだそうで、それ以後には脂肪の付きが悪く食用にできないらしい。
 


シカのほうは毛皮の利用価値があるが、イノシシは無理のようです。そんなわけで、ここでは猟犬を育てるために飼っているということでした。猟犬はかつて15頭もいたそうですから、なるほど、その食欲を満たすには何頭ものイノシシが必要なわけです。
 


この方はハンターで、以前は鉄砲を使っていたのが、今はワナを使って猟をしていると言います。この猟期だけで150頭も捕えたと聞いて驚きました。大半はシカで浅間山からゴルフ場、ゴミ焼却場にかけてのエリアが猟場だということでした。
 


ゴルフ場自体でもシカやイノシシ対策で約100頭は捕まえているということですので、農家の被害が日頃少なくないのは自明です。ですから、この方の活躍には拍手を送りたいところです。彼は自らワナを改良して効率を上げたそうで、そのワナを見せてもらいました。


手に取って見ると一見簡単な装置です。でも、彼が実演した様子ではまさに迅速かつ的確で、なるほど、150頭もの獲物を捕獲した実力の秘密がこの装置にあったと感心いたしました。そこですかさず特許でもとったらと言ったのですが、彼はただ笑っているだけでした。
 


それから倉庫小屋の中を見せてもらったら、シカの角がズラーッと並んでいたのには驚きました。特にシカの歯にもキバが付いているのを見て、これで木の皮を剥ぐのかと納得できました。シカは弱きもののイメージがありますが、認識を改める必要があります。



イノシシの捕獲の話しでは、鉄砲を使わずに仕留めるのは簡単ではないと言います。暴れている獲物を一突きで仕留めるのは至難の技だと言うのです。槍を見せてもらったところ、刃渡りが20センチくらいの貧弱なものでした。
 


現在小屋の中にはオスが一頭、雌が五頭。常時エサを与えているせいか、彼が檻の中に入っても危害を加えられるような雰囲気はありませんでした。いつもと違ってイノシシの目は優しく映りました。


大型漁船2013/03/06

”はなれ”にて
気温も上がって温かい一日。今朝は水下から志津摩に下りて海岸線をのんびり歩き、その後、“はなれ”を回って「浜の湯」の裏路から東町の家並みへと向かったら、とある空き地で日向ぼっこしている伴七オジサンに逢いました。久しぶりです。

伴七オジサンは昭和8年生まれの80歳。まだまだ働ける元気な方ですが、今は息子に船を任せて悠悠自適の生活を送っておられます。素人の息子さんがいきなり船に乗って漁が出来るのもGPSのお蔭だと皮肉まじりに言い始めました。

GPSの無かった時代には最適の漁場を探してそこで仕事ができるようになるまで10年はかかったと言う話しから、自慢話と“今時の若い者は・・・”の話しが延々と続きます。

そんな話の中で、印象に残ったのは伴七オジサンの時代には、稲取漁港に50トン100トンの船が常時出入りしていたということです。彼自身、20人くらいの仲間の乗組員とともに八戸や函館のほうまで遠征していたと言います。

現在、稲取漁港では漁船は確か100隻もないと、以前聞いたことがあります。その中で大型船は一隻もなく、比較的大きいので“ねこせ”のクレーン船くらいのものです。他の大型船が寄港したところなど私は未だ一度も見たことがありません。

仕事は決まって、9月が始まる頃から12月の始め頃までの長期3か月間で、寒い時期での北国の漁は大変だったと述懐します。今どきの若い者は冬の漁は寒いからと嫌がるが、伊豆とは比較にならない寒さの中でオレ達はやってきたんだと云う訳です。

大型船と言えば、昔の蓮行寺跡に出来た造船所では、フイゴを使って真っ赤に焼けた鉄の塊を叩き、木船で使う大きな釘を造っていたそうです。今、この稲取で船を建造する様子が見られないのは残念です。一度見たかったですね。