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灯篭流し2014/08/16

池尻海岸
志津摩のここは釜屋。志津摩遊歩道の入り口で、紙袋を提げたオバサンが磯の大岩を飛び飛びして水際に近づいていった。しっかりした足取りである。水際に来ると、ちょっと足元を見つめてから紙袋の花束を取り出し、それをそっと水に浮かべた。波が来て花束を手前に押し上げたと思ったら、すぐにさらうように水際から離れて、それっきりその花束は戻ってこなかった。

「千葉の富津から稲取に嫁入りして50年よ」オバサンは海原に目をやりながら、明るい表情で言った。その目の方角には大島が浮かんでいるはずだが、今朝は水平線と思われる境目に島の姿は一つもなかった。

彼女が稲取に嫁して25年経ったある日、突然、ご主人が交通事故で亡くなった。彼は洋食が専門だったが、土地柄、それだけではと、自分で勉強して中華もメニューに加え、二人で忙しい注文に応じていた。人気のある店だっただけに、夫亡き後、彼女は一人で店を続けるには余りにも負担が大き過ぎた。結局、店は閉めることにしたのだった。

彼女には子どもが無かったが、むしろ身軽だったことで仕事を探すのは容易だった。当時はアスド会館がまだ労働組合の所有で、組合員がよくこの施設を利用していた。社会党がまだ元気な頃のことである。女党首の“おたかさん”が言った「山が動いた」という言葉を覚えている方も多いだろう。

この会館は宿泊施設と食堂を備えた立派な施設で、そこで料理人の一人として、或いは時に雑役係として13年間務めた。あっという間だった。だが、結婚後、家族に恵まれなかった彼女にはこの忙しい生活が何よりだったのである。むしろ毎日の生活に張合いがあった。

仕事から離れた今でも、近所の人たちの優しい気遣いで少しも寂しい思いをしたことはない。自宅によく寄ってくれる人が何人もいる。他愛ない世間話が元気づけてくれる。

「50年前には道がなかったのよ、ここには」彼女は久しぶりに志津摩の遊歩道を歩き、だいぶ雰囲気が変わったのに驚いた。「あの人魚と、イルカ、キンメのモニュメントが志津摩を恋人たちのムーンロードに変えたようだわ」昔、細々とした道が続いていたという。

先ほど彼女が流した花束は実は夫への手向けだったのだ。今日は灯篭流しの日だったことを私は帰宅してから午後5時前の町の広報で知った。彼女は夫に会いにこの場所へ来たのに違いない。だとしたら、私は彼女の邪魔をしたことになる。

遊歩道の入り口に留めた軽乗用車は彼女のものだった。運転席から顔を出して彼女が言った。「久しぶりで同じ千葉の人とお話が出来て嬉しかったわ、ありがとう」