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水下に水車が3台も?2015/02/01

水下から大島を望む
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先日は、水下に水車小屋が二つあった話を聞きました。その一つの“二つ掘”の前の水車についてはコンクリートで護岸された川がありますので、在りし日の様子が想像できました。今朝は、水下の公民館の上、「こころ介護」の下辺りに水車小屋があったというので、再確認して参りました。

 

実はその前に、念仏堂の近くで88歳の老婆からたまたま聞いた話によると、この裏、つまり、二つ掘の上流にもう一つ水車小屋があったというのです。水下地区に、しかも近距離に3つもの水車小屋があったとは驚きです。

 

一番大きな水車がこれから現地をチェックする場所に、次いで念仏堂、そして“二つ掘”のが一番小さかったそうです。彼女が幼い頃、母親に連れられてよく来たのが公民館上の水車で、米を搗き、粉を挽いていたということです。

 

さて、水下公民館の上には通りに面して2,3軒の家があり、“こころ介護”の下が畑になっています。民家の駐車場から水路を覗いてみると、量は少なめでも、確かに水が勢いよく流れています。この辺りはある程度の斜面になっているので水車は良く回っていたものと思われます。
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<白線が水路です>

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「UNITED」さんの南側の小高い荒地に上がると、この辺一帯が俯瞰できます。稲取岬に灯台やホテル浜の湯も、大島も目の前です。左側の山を登れば愛宕神社です。

 

金指徹著「稲取風土記」によれば、この水車を回している川は江戸時代の宝暦から文政年間(1751~1827)にかけて整備された用水路だったということで、字堰掘から志津摩川の水を取水し、公民館前を通り、馬道の脇へ流れていると考えれば、この用水路に水車が3つ並んでいたと理解することが出来ます。

 

地形からすると、公民館下から念仏堂の山側を通って馬道へではなく、バス停水下の方へ流す方が無理がなく思えるのですが、何か理由があったのでしょうか?また、水下の隣近所で3台の水車を回すほど需要があったのでしょうか?疑問が残ります。

 

いずれにしても、この辺の流れについて、そして3台の水車についてもう少し調べてみる必要がありそうです。
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南伊豆の寺を巡る2015/02/02

下流
.<ホンダワラを干している下流(したる)の浜 >
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伊豆横道33観音霊場巡りは南伊豆の8か所を残して、25か所をすべて済ませています。今日はその南伊豆の4か所を巡ってきました。電車バスを利用しての安易な巡礼で、今回は特に、バスをうまく利用して徒歩の時間は少ない巡礼でした。

 

スタートは修福寺で、弓ヶ浜手前の湊クリニックの近くです。ここから石廊崎港にかけて、バスは南海岸の景勝地を走り、下流(したる)の大慈寺、寺坂の正眼寺、最後に下賀茂に戻って慈雲寺というコースを組んでみました。

 

26番修福寺は鬱蒼とした参道と境内が印象的でした。次に訪れた28番大慈寺はご住職の優しさと気配りが、29番正眼寺は本堂の内壁を飾る天女の絵や、天井に描かれた龍の絵が、そして最後に26番慈雲寺は青野川沿いの、そこかしこに立ち昇る湯煙がそれぞれ心に残りました。

 

とりわけ、下流に残る漁村の風景が青い海原とともに、今脳裏に浮かんできます。今日は一日、好い旅が出来ました。
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石廊崎港
<石廊崎港>
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下賀茂温泉銀の湯
<下賀茂温泉 銀の湯>

上清水にも水車小屋2015/02/03

<中澤正男さんの絵の一部>
一昨日は水下の水車があったと思われる場所を確認後、直ぐ上の小田代から二葉苑を右に見て例の水路を横切り、半僧坊に下って、更にコーポ稲取脇のバス停入谷口に出てから、県道に入って交番の裏を探索してみました。もう一つの水車があったという場所探しです。

 

八代薬局から交番の脇の道へ入って行きます。この道は鈴屋、小学校へと通じている道です。道路は先細りですが、コンクリート道の下は水路であることが分ります。いわゆる狭いU字溝のような排水路として設けられたのではなく、川に蓋をした感じのものです。

 

ちょうど年配のご婦人がやってきたので訊いてみました。彼女が50年前に結婚してこの地に来たときには、水車など無かったということです。ただ、川がこの場所に流れていたのは覚えていました。その当時、家並みは現在とほぼ同じに建物はギッシリだった由。

 

その後、県道に戻って、食堂ヤシの脇から小道に入ってみました。このルートは小規模の排水路でしかなく、そこで、途中の駐車場から寿湯の方へ向かい、「まことや」さんと「おもちゃの松田」さんの通りに出ました。この通りには水路は完全にありません。

 

ちょうど「まことや」さんのご主人が何か作業しておられたので、お邪魔して訊いてみました。しかし、彼も水車小屋は見たことがないと言います。あったとしたら、やはり、先ほどの交番の脇を流れる川沿いだろうということでした。ただ、寿湯の前身が粉ひきだったと聞いて合点がゆきました。

 

粉屋がモーターを回して機械を動かしていたということは、多分、それ以前の動力は水車だったと考えられます。彼は昭和14年生れで、75か76歳です。先ほどのご婦人は50年前には水車が無かったと言ってましたが、70年くらい前に既に水車の姿はなく、代わって電動モーターの時代に入っていたということでしょう。

 

ところで、ここを流れる川は小学校の体育館の脇から流れ込んでいた、と先ほどの年配のご婦人が言ってましたから、その上をたどると多分、馬道に繋がるのでしょう。「稲取風土記」では、字堰掘の水が馬道の先から大畑方面と小学校方面に分岐していたと記されています。

 

従って、江戸時代に整備された水路網によって水車が、上流の水下で3台、そして下流の上清水で1台が回っていたということになります。この件については、もう少し調べてみましょう。


水下の用水路を訪ねて2015/02/04

二つ掘ミカン園
.<二つ掘みかん園>
水下の水車小屋の跡を訪ねるについては、先ず当時の田園風景をイメージするための材料探しと、用水路の確認探索行の二つの目的がありました。

 

「二つ掘」の前を流れる水路脇は収穫体験農園の周遊路として最近整備されたので、通行許可をいただくため農園の管理センターに顔を出したら、女将さんが出てきて現地まで案内してくれたのには恐縮しました。

 

女将さんは、「二つ掘」の前に架かる小さな橋のたもとに水車があったことを教えてくれました。川の右岸に僅かながら余地があり、そこに小屋があったと言います。その背後は一段高くなった畑で、しっかりした石積が畑と小屋の双方をガードしていたように見えます。
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 <右の林の下に水車小屋があった>

しかし、彼女の幼い頃、母親に連れられて来た水車小屋は「堂の前」裏の小屋だったそうで、懐中電灯を手に径を歩いてやって来た記憶があるという。案内していただいた「堂の前」裏までは距離にして100mもありません。この小屋の管理者は外岡さんだったそうです。

 

彼女が二つ掘に嫁入りして来た時には、既にこの辺の水車小屋はすべて姿を消していたということですが、幼い頃、動いていたとすると、55年くらい前までは稼働していたということになります。このことは、上清水では50年前にその姿はなかったという事実と符合します。

 

それから、用水路としては水下公民館前で、この「堂の前」~「二つ掘」ラインと、西側に「水下口」ラインが分かれていると教えていただきました。

 

公民館上のもう一つの水車小屋については、今日は場所の特定は出来ませんでした。それでも、そこから入谷の堰の沢までずっと水路をたどり、ついに志津摩川の取水口まで到達できました。水下の水車を回す水路の水源を確認したということです。

 

でも、たどり着いたところは想像していた通り、3~4年前に別のルートから訪ね当てた場所でした。当時の私にはこの水車を回した水路という問題意識は毛頭ありませんでしたから、今回は格別な思いがあります。(つづく)
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<堂の前の賽の神様>


五十尻川の水門2015/02/05

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「こころ介護」の先から西方向へ急坂をミカン畑の中へ下りて行くと、タルガネや爪木崎を遠望することが出来ます。ここを北方向に水路が続いていることを確認して、一旦、通りに戻ります。

 

そして「二葉苑」の脇から水路を再び追って行きます。上田代の新開地の脇につづく尾根道を上がってゆくと、左に大きなハウスがあって正面の屋敷で道はストップ。そこでミカン畑に上がる小道を水路に沿った形で追跡すると、とうとう道は無くなりました。

 

しかし、尚も水路のざわめきを下に聴きながら進んで、ついに再びコンクリート舗装の小道に出ました。ここにもハウスがあります。そして道なりに下って行く途中で水路を再確認してから、民家の前を通って入谷道に出ました。栄昌院の直ぐ上でした。

 

次いで、長坂の終点にある賽の神様の石壁から追跡を再開。民家の前を上がって更に下って行くと、ミカン畑を右に、左に水路を見ます。見覚えのある風景が前方にありました。志津摩川はもう直ぐ近くです。そしてついに水下の水車を回す水源に到着。

 

途中、町の看板に、五十尻川の水門を閉じていると記されていたが、二つの水門は共に9分くらい閉じられており、少しだけの水が流れていました。志津摩川本流も水は少ない。

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ところで、現在はコンクリートの用水路となっていますが、この用水路を最初に建設するに当たっては多くの人の労力が必要だったことは当然で、その一端を“堰掘”の老婆から聞くことが出来ました。

 

老婆はこの家の6代目にあたるそうで、昔チフスがはやった初代村長、田村又吉さんの時代に西山五郎医師の助言を得て水道を敷設することになり、堰の沢のこの地の工事が始まったと言います。そこで付けた屋号が“堰掘”だったのです。“上の堰掘”が田村さんで、“下の堰掘”が鈴木さんです。

 

彼女の孫ジイサンに当たる人が相当の財を成したのですが、その子の総領の甚六の言葉通り家運が傾き、奈良本に養子に入った次男のリクエストで謂れのある銘刀を蔵出しして、その子の出征に同伴することに。その際、刀鞘はサーベル用に改良された。大陸に渡ったのは刀だけではなく、馬も供出されたということでした。その後、その子の戦死とともに、その銘刀の行方は杳として分からない。

 

用水路探索の最後に思ってもみなかった話を聞くことが出来たのは幸いでした。