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牛馬の事故2015/12/29

稲取の入谷にある「牛馬慰霊碑」は大峰山や三筋山に登る際に度々立ち寄って、私にはお馴染みの“町の遺産”の一つとなっています。今朝はかつての牛馬の活躍ぶりを“おおぶら(大洞)”のお年寄りからお聞きする幸せに恵まれました。

 

彼が子供の頃はおおぶらから田之上~権現様にかけて、細々とした田圃の畦道がありました。この細い道は牛馬とともに野良仕事に往復する道でした。所によっては川を岩伝いに渡り、崖道に足を取られるような気の抜けない場所でもありました。

 

ある時、彼の母親が牛を追ってこの道を歩き、大変な目にあったことがありました。牛の背には肥料をぎっしり詰め込んだカマスが幾つか載っていました。牛馬の床に敷いたカヤはその糞などと一緒に田畑の格好の肥料になるので、これをカマスに詰め込んで運んだのです。

 

彼の母親がこの一連の仕事をやってのけようとしたのにはわけがありました。父親は農協の役員で多忙であり、彼のただ一人の兄は出征中でした。母親は初めての仕事でもあり積荷がほどけ、それがもとで不運にも牛がバランスを崩して小さな川に転げ落ちてしまいました。

 

母親は無事でしたが、牛が仰向けに転がったのを見て仰天し、“時ならぬ声”を上げたのでした。すると、その声を聞きつけた彼女の弟(叔父)が、谷を隔てた“こどうみ(小峠)”の隣の畑からおおぶらを脱兎のごとく通り抜け、この田之上に駆けつけて来たのでした。そして転がった牛を何とか立ち上がらせ事なきを得たということです。

 

当時の農道は牛馬が付けてやっと通れるようになった道が多く、特に山坂の複雑な地形が大半を占めるこの地区ではこの種の“事件”は珍しいことではなかったのです。そのため、こうした”事件”が起きると、普段から“牛馬の友”たちが集って協力し合い、事を収めました。

 

バリカン山は昔から炭焼きが盛んでしたが、この山で一日炭焼き仕事をして帰りに“(みずたれ)水滴”の沢を渡ったFさんの馬がやはり崖に荷物を引っ掛けて、哀れ積荷ごと沢に転落。落命したことがありました。この時は“牛馬の友”たちが総出で後処理をしたということです。

 

先ずは竹林から孟宗竹を数本切ってきてこれを格子状に結い、その上に馬を載せて“おおみよ”の「牛馬慰霊碑」のある所まで大勢で担ぎ上げました。馬一頭、牛一頭と言っても、10人近くの体重はあるでしょうから、さぞ難儀をしたことでしょう。

 

ここで面白いお話をひとつ。死んだ牛馬は穴を掘って葬られるのですが、その前にしろ後にしろ、肉屋がその肉を買いに来たと言う話があります。さて、でも、ありそうな話ではあります。