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白田林道を歩く 32019/09/30

白田の山根地区に入って間もなく、庭仕事に打ち込んでおられた知人に運よくお会いすることが出来ました。彼は仕事を中断して私を屋敷に招きいれ、早速の私の質問に奥の部屋から分厚い書籍を持ち出して、パラパラ頁を繰りながら答えてくれました。

 

  • 浅間山の祠に手向けしているのは白田だけではなく、別に稲取の浜の人たちも執り行っている。岩祠が浅間神社で山頂の祠との関係についてはわからない。

  • 白田の場合は、例祭日(1,5,9の日)に源八山(?)の山の神様、浅間山の祠そして天城の山の神様の3か所にお参りする。現在は区の役員も例祭に参加できる人が極端に減り、きちっと行われてはいないようだ。

 

以前、私もこの源八山(?)の神様がどこにあるのか、付近を探してみたことがあります。新白田トンネルを抜けて下ってゆくと、右手の道路際にあるペンキ絵の建物が東伊豆町の第2配水場で、この近くから風車の丘へ上がる道を辿って、その途中にあるということでしたが、残念ながら探し当てることが出来ずに風車の丘に辿り着いてしまいました。それも2回試して探し当てることが出来なかったのでした。以来ずっと宿題のままです。

 

知人宅を辞したあとは迂回路に出てから、更に先へ向かいます。迂回路と横山商店との間にも賽の神様があって、こちらは3段の石畳の上に祀られています。ここから約100mほど歩くと「湯が丘公民館」で、その先、約150m左手に御殿のような3階建ての立派なお宅があり、地図上に「高羽左官工業」と記されています。そこの路地を入って間もなくまとまった墓石が目につきます。これが町指定の文化財「大洞庵遺跡群」です。

                    左官やさんの玄関先
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五輪塔や宝篋印塔が立ち並んだ様子から武将か公家の墓と想像されます。この場所は近くにある普応寺の跡地だそうですが、古文書等が残っていないのでその由来はわかっていないそうです。かつて石原驍元町長が情熱を傾けた白田城の存在調査(同元町長著「伊豆の史伝」に詳しい)に大きな影響を与えた一つと思われるので残念なことです。

 

さて、この遺跡訪問後は暫く歩いて特養老人ホーム「湯が丘の郷」を過ぎれば、民家もない白田林道をそのまま行くことになります。  つづく