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聴力2019/11/14

イソギク
<赤いのは「ネコノシッポ>
子どもの頃には私は聴力が弱いと感じたことはなく、不便を感じ始めたのは古希を過ぎてからのような気がする。最近、テレビでしゃべっている声が、音としては聞こえているのに何を言っているのか良くわからないことが度々ある。そこでボリュームを上げるのだが、健常者にとってはいい迷惑である。高すぎる音を常に聞くようになると、いつか難聴を誘発しかねないからだ。

最近のテレビ放送は字幕付きが多く、このごろは字幕が出るとそちらの方に目がゆき、声自体を聞き取るほうがおろそかになっている。したがって聴力が益々衰えてゆく気がする。聴力にしたって、耳に入ってきた言葉を瞬時に理解する能力が問題だ。理解できていなければ、それは雑音でしかない。聴力テストは「あ」を「あ」と耳に届いているか否かだろうが、それが合格点であっても耳に届いてきた言葉を理解する、詰まり、言葉の意味がわかる能力とは別問題なのだ。

テレビの字幕は聴覚障害者にとっては欠かせないサービスだが、年と共に聴覚の衰えを感じている者にとってはむしろ逆効果かも知れない。何とか自助努力で聴覚を取り戻すには字幕なしの音声、即ちラジオが一番かも知れない。

音読はどうだろう。音読は認知症の予防や進行を遅らせるのに効果があるという。特に一人ではなく何人かで読み合うのが良いとされる。この場合の条件は皆で声を合わせること。自分だけ張り切って突出してはならない。そのためには絶えず耳をそばだて、尚且つ、周りに気配りしながら発声のタイミングをはかることが大切だ。

字幕付きのテレビの放送を瞬時に理解するのを受動的認識と定義すれば、自ら音読して発した言葉の意味を瞬時に理解するのは能動的な認識と言えるだろう。しかも、後者の方が聴覚能力においてはより意味があるのではないか。何故なら、文字を自分自身の声で音出しし、その音を聞くという作業が伴うからである。

でも、文字を読むという点ではテレビの字幕付き放送と変わりがないではないかと、反論されるかもしれない。確かに、字幕を読んで理解していると言う行為が伴ってはいる。しかし、この場合は放送で流れて来る音声の理解が後回しになる傾向を助長する嫌いがある。字幕依存症だ。テレビは映像があるから尚更だ。映像自体が事態の意味を伝えている。ひるがえって音読の方は勿論黙読ではないので、自ら発した音が耳に届くことからすると、音声の認識能力の観点からは、テレビの字幕放送の場合と比べて大きな違いがある。

ただし、ラジオの場合だと、頼りになるのは受動的ではあっても、流れて来る音声のみがその意味を理解する唯一の手段であることから、ラジオは大きな効果を発揮するに違いない。

以上を要するに聴力、即ち聴覚能力の訓練には、基本的に音声について能動性を持つ音読が第一で、ラジオがそれに続く有力な訓練手段だといえるだろう。明日は月一度の音読の日だ。紅一点ならぬ白一点で、“紅”に合わせて音読を試みる努力をわすれないようにしよう。