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市民農園2024/01/25

東伊豆町の市民農園はスタートしてから数年が経ちました。現在も順調に運営されているようです。ただ、不幸にして新型コロナウイルスの影響を受けて最近では利用者が集まってのイベントの開催が中断し、折角のコミュニケーションの場が失われているのは残念です。それでも、きょうは湘南ナンバーと横浜ナンバー、そして伊豆ナンバーは2台の駐車がありました。

去年の暮れに、時々散歩で顔を合わせる方が市民農園の管理人の一人だと聞いて、いつかお訪ねしようと思っていたのがきょう実現しました。利用者様との対話の合間をぬって暫く当方との話に付き合っていただきました。


この農園には管理人さんが3名いて一日一人が担当し、週2日勤務で回しているとのこと。彼はサラリーマンを定年で卒業した人ですが、農業の経験は充分持っている方でした。驚いたことに当方の知り合いの農家の方とも血縁関係にあるということでした。

たまたま役場の職員が3名のビジターを連れて管理棟内を案内しているところにも居合わせました。管理人さんは農園の希望者だと耳打ちしてくれました。普段、ここを散歩中には見たことがありません。寒い冬の時期にも希望者がいるのですね。

仕事の邪魔になるので長居は出来ません。話はまた入谷を散歩している時にでも聞くことにしましょう。

市民農園の管理人さん2023/12/30

きのうは入谷の”あらまき”について少しでも資料を得ようと現場へ出向いたのだったが、思惑通りにはゆかなかった。考えていたお三方にいずれもお会い出来なかった。それでも、途中、入谷の坂道で市民農園の管理人さんの一人にお会いして親しくお話ができたのは収穫だった。市民農園は国道から少し上がった所(林の沢)にあり、日頃から散歩の短時間コースとして目標の一つにしている。いつか訪ねていろいろお話が出来たらと考えていたので、キッカケが出来たのを喜んでいる。
或いは場合によっては、土いじりの真似事でも始めることになるかも知れない。
この秋に立派に実ったヘチマがそのまま。片方は既に萎びて枯れ始めた。

あらまきのはじまりー上2023/12/01

先日ヤマハンノキHWを歩いた時、「中の平」で新田開拓の記念碑の刻文をあらためて読んだことが切っ掛けになって、帰宅してから石原驍さんの「伊豆の史伝 下巻」を開いたところ、幸運にも「あらまき」の紹介記事を見つけることが出来た。それによると、「中の平」の開拓で名高い八代善次が大正年代に「あらまき」の原野を切り開いた事実を知る人は少ないという。まさにこの記述は私が以前から気になっていた「あらまき」の資料として貴重なものだった。 

稲取は平地が少なく、丘陵が入り組んだ地形である。隣の河津と比較できないほど水田の耕作面積は少なかった。それでも養蚕やミカン栽培が好景気の波に乗っている時は良かったが、第一次大戦後の不景気が襲った時、農村経済も疲弊の道をたどっていった。そんな時、米作りに立ち上がったのが入谷の二人の青年だった。記念碑の刻文にある八代善次と山田耕夫だ。 

昭和3年1月に着工し5年8月に竣工するまで様々な難局があったが、新田開拓をやり遂げた二人の努力は現在でも立派に結実している。現在は水田が僅かに2カ所にしかなく、殆どが園芸用ハウスで占められている。稲取では各所でイチゴやカーネーションの栽培で生き残りをかけているように見える。「中の平」も先人の努力を立派に引き継いでいると言えるだろう。 

「中の平」と並んで原野を開拓して農地に変えた「あらまき」について、「中の平」ほどの物語を聞かないのは片手落ちではないかと、最近、その知識の少なさを感じ始めている。きょうの訪問はその知識を深める意味で収穫があった一日だった。「あらまき」やその周囲はそもそも八代一族の原野だった。

先ずは国道から1時間足らずで山の神さまに上がり、旧道のJAの倉庫前から大久保橋を渡って農免道路を横切り「あらまき」への道を下る。下り始めの道路際にイソギクが群生しているのに気づいた。ここは夏の終り頃からコスモスがやはり固まって咲いていたので、その変わり身に驚き写真を2~3枚撮った。そして振り向くと、ご婦人が一人坂道を上って来るところだった。照れ隠しに声を掛けると、意外な話が始まる奇縁となったのである。


アラマキ、ハギクボ、茶の平2023/10/22

稲取入谷の山神社脇から河津方面へ「農免道路」が走っているが、河津方面へその道路が一度下ってまた上り切った所から海に向かって小尾根が派生している。その入口の部分に三角点標識が立っているのを知る人は少ないと思う。垣根の足元が藪で覆われて殆ど日の目を見ていないからだ。この三角点名は「萩窪」とされている。周りを眺めると、小尾根の東側にちょっとした窪地があって、そこには大きな園芸ハウスが林立しており、そこは土地の人が「あらまき」と呼んでいる農地である。

この小尾根をたどると「あらまき」から上がってきた道を併せ、更に海側へと道は伸びて下ってゆく。最終的には水下から見高入谷へと向かう旧道を横断して志津摩に出ることが出来る。きょうはこのルートを歩いて来た。歩きなれた私の好きなウォーキングルートの一つでもある。

ところで、この小尾根の道と「アラマキ」から上がってきた道の合流点から少し小尾根を戻ると、町指定の「茶の平遺跡」がある。と言っても保存された遺跡ではなく、ビニールハウスがあるだけで、若干の広場を保ちながら小尾根状に南に落ち込んでいる。要するに、この周りには「萩窪」、「あらまき」そして「茶の平」の三つの名前が混在しているのだ。そしてそれぞれがどう定義されているのか、私にとっては長く棚上げになっている宿題である。

 山神社の前を通り過ぎ「木割場」の石仏群の台座を借りてひと休みした後、JAの倉庫から旧道を下り大久保橋を渡って農免道路に出た。旧道はそのまま農免道路を横断し、下って「あらまき」の窪地に右回りで降りて行く。ハウスを外側から回り込んだ所で、その一つから人が出て来るのを見届けると、急いで駆け寄って声を掛けた。60台くらいのオバちゃんだった。午前中の仕事を切り上げてお帰りのようである。ハウスの前に軽トラがあった。早速、この辺を何と呼んでいるか聞いてみた。オバちゃんは一瞬、間を置くと例の小尾根の高台を指さして言った。「あそこに“茶の平遺跡”というのがあってね、この辺は茶の平という所なの」 “あらまき”という人もいるけどというと、首を横に振った。

オバちゃんは実家が河津で水下に嫁して来た人だった。それでも、この窪地が樹林で覆われていたのを開墾したものであることを知っていた。ここは土地の所有者を中心として何人かが借りてハウスを建てたものだそうだ。“あらまき”についてはコメントを得られなかったが、この方のお宅ではここを“茶の平”と呼んでいることが分かった。

 他にもう一つ、私の認識と違う話があった。ここの水道は志津摩川から取ったものではなく、地下水からくみ上げた水を各ハウスに配水している、と言うのだ。この点についてはこの窪地の南側に小さなダム状の設備を数年前まで目にすることが出来たのだが、現在は藪に覆われて見ることが出来ない。当時、このダムを一見して志津摩川から取水したものと思い込んでいたのは間違いだったわけだ。そうだとすると、このダムはその下の地域の田畑に給水するための施設なのではないかと考えられる。新たな視点が得られたわけだ。志津摩川の西側地区を流れている水路があるとしたら、それが志津摩川から取水した用水路であると断言できる。いずれにしろ、この水路は“茶の平”にせよ、“あらまき”にせよ、この窪地のハウスには関係がない水路ということになる。

ところで、この窪地のハウスはカーネーションだけではない。イチゴ、ネーブルなどもあり、オバちゃんのハウスはイチゴだった。ハウスの中に細長い懐中電灯のようなものが天井から釣り下がっていた。しかも赤い明りが点いている。これは害虫除けのもので、業者から試しに使ってみてくれと云われ、現在はテスト中である。オバちゃんはこの害虫がほんの1ミリか2ミリくらいのごく小さなもので、放っておくと結実した実が硬いものになってしまうと言ってたので、このテストで良い結果が出ることを祈りたいと思う。


稲刈りも済んで2023/10/11

中の平では今年の稲刈りはもう済んだようです。今月6日にご当地を歩いた時の写真です。田圃は2枚です。後片付けも残りわずか。右奥にあるのはガマです。