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蟹が森ポケットパーク2021/08/03

蟹が森ポケットパークは路地の一画にあるミニミニの公園である。ただし、ベンチが一つあるだけで、いわゆる公園としてキャッチボールが出来るようなスペースは全くない。それなのに、このミニ公園前を通過する度にいつも魅力を感じるのはタイルに描かれたカニの絵のせいなのだろうか。多分、サワガニなのだろうが、私が今まで見てきたサワガニは薄い水色だった。しかし、この絵では赤色っぽく描かれていて、実際に赤色のサワガニもいるらしい。タイルの横に石積みされた石垣があり、葉の形状からキク科の植物と思える小木が前面に並んで、そのタイルの上の植え込みにはアジサイだ。石垣からは滲み出たような水気がある。こんなアレンジメントからはやはりサワガニをイメージするのが順当というものだ。 

片瀬のバス停からこの台地まで急な坂を上って来た私はこのポケットパークで一息入れようとしていた。すると、背後から人の声がした。散歩で通りかかった初老の男性だった。ベンチを勧めて私も腰を下ろした。聞けば、赤松からJA奈良本に至るバス通りの近くにお住いの地元の方だった。早速、私があの坂道を喘いで登ってここまで来たというと、彼は目を丸くして驚いていた。夏のこの時期の散歩は年寄りには日の高いこの時間帯は向かない。平地をしかも日陰を選んで歳に相応の時間で切り上げるべきだろう。 

彼の話では子供の頃、よくあの坂道から片瀬の商店街に下りたそうだ。バス停の近くの食料品店や今はもうない文化堂という本屋が目当てだったという。確かに、子供の足ならきつい坂道でも苦労しないものだ。しかし後期高齢者の今はとてもとてもと彼は顔をしかめた。 

片瀬からこの台地に上がるには、他に坂町のバス停から「境松」に上がる道もあるが、彼はこのルートは殆ど往来しなかったと言う。現国道135が当初有料道路として竣工したのが昭和42年であるから、彼の子供の頃はまだ有料道路は通っていない。昭和53年の伊豆大島近海地震の際に当時の国道やトンネルが埋没するなど大きな被害を受けたとき、その有料道路が国道に代った経緯がある。つまり、坂町に下った場合、現国道なら歩道も完備しているが、当時の生活の道は片瀬海岸方面へ少しずれている。今回は図書館に寄ってから帰宅するのに坂道へのルートをとってみたところ、片瀬バス停への坂道と比べても結構傾斜が厳しく距離も少し長い感じだった。 

そんな話をしていたところ、前方から老婆が杖をつきながらゆっくりと歩いて来て目前で足を止めた。山の手を指さしてあっちの方からやってきたという。それで、孫に頼まれて買物に行くのだと言った。彼が中学校の方からかと訪ねると、バス道路の方からだという。それなら真っすぐバス道路を歩いたほうが早かっただろうに、と彼が重ねて言うと、いや、この手前の畑で一仕事してきたと聞いて成程と思った。浴衣のような着物に長靴を履いてザックを背負っていた。今88才だが、孫が100才まで頑張れ、そうすればお祝いのお金をたくさんもらえるよと言われて俄然その気になった。なりはみすぼらしいが、畑仕事なら納得も行く、背中のザックから白いダイコンがのぞいていた。ゆっくりと歩いてゆく老婆を見送ると、次はこの台地の話になった。 

標高がほぼ100mのこの平らな台地は区画整理されたようで、畑と宅地が整然と共存しているように見える。入口近くにある記念碑の刻文を読んでみると、この辺一帯は大昔火口湖だったとのこと。従って、大雨でも降れば排水が悪いため、水没したり作物にも被害が出た。そこで昭和63年に念願の排水溝の工事が竣工し、現在の姿になったという。彼の子供の頃は殆どが田圃でポツリポツリと家が建っていたという話だ。そしてこの蟹が森の近くで大雨が降った後に水があふれていたのをたびたび見たそうである。

「蟹が森ポケットパーク」の名前の由来はそんなところにあったのかも知れない。サワガニがたくさん棲息していたことは先ず間違いはないと思われる。