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稲取の歴史2009/09/21

稲取工漁港
ラーメン屋のフナさんのおじいさんは考古学に詳しい方で、伊豆の隅々を歩いて遺跡の調査をされたそうです。

稲取で卑弥呼にまつわる話が評判になったとき、逸早く現地を訪れ、調査した上で否定されたそうで、その顛末は新聞にも載ったということです。この道の碩学だったのですね。

フナさんが博学なのも、おじいさんの影響があったからなのでしょう。私たちはこの稲取に転居して以来、いろいろなことをフナさんから教わりました。

現在、稲取では漁業の発展がめざましく田町、西町、東町は山の手の入谷、水下地区より羽振りが良いように見えます。

しかし、フナさんによれば、稲取はもともと農業が主だったといいます。今でこそ海岸線は埋め立てによって広がっているが、昔は新宿通り商店街のあたりまで波が押し寄せていたそうです。

かつて在郷の識者によって稲取の100年史が編纂された、とフナさんから聞きました。いずれ東伊豆町の図書館をのぞいてみましょう。

コメント

_ 松田 義信 ― 2009/09/27 21:40

初めまして、稲取在住の者です。天城山を検索中に出会いました。海岸線の事で「稲取銀座通り」のあたりまで波が来ていたということは無いと思います、「新宿通り商店街」のあたりでしたら納得です。

_ taakesan ― 2009/09/28 10:50

松田さん、コメント有難うございます。
糀谷旅館のあたり、と聞いたような気がしますので、
私の誤解による独断であり、正確な記述への配慮に欠けました。

バス通りよりもうひとつ海側の通りは’新宿通り’というのだそうですね。役場に問い合わせて知りました。
今後ともご教示お願いします。

_ ga881 ― 2009/10/02 01:26

はじめまして!20年前まで稲取在住でした。稲取小、中の卒業生です。懐かしい稲取の様子をいつも楽しみにしています。

フナさんのお話に出てきた100年記念誌を読んだことがありますよ。
20年前はゴロゴロ余っていたように思っています。紺色の布装丁で図鑑のように分厚かったようなw伊豆急行開通前の村の様子や城東村、稲取村時代からのお話や震災の様子など、当時の古老からの聞き取り調査を中心にとても良い資料だったように思います

稲取小前の山田書店さんや、港の電気店ポートクロダさん、時計店の正美堂さんなど郷土史に詳しい方々は、ひょっとしたら所蔵されているかも知れません。ご参考までに。

_ taakesan ― 2009/10/02 07:35

ga881さん、いろいろ情報有難うございます。
コメントを頂いて、「100年史」をますます手に入れたくなりました。

とりあえず、山田書店さんに相談してみようと思います。

_ 斎藤喜一郎 ― 2024/02/01 12:58

稲取の部落の分け方が違うようですが。
若い衆制度のあったころは、部落単位で行動が制約されていました。稲取の夏祭りが大きくは4日間ですが、
1ケ月間になったこともありました。
百年史は稲取人なら大抵持っているのではありませんか。
無かったらお貸ししますよ。

_ inada ― 2024/02/02 10:34

斎藤さん、コメント有難うございます。
「向い」が余計で削除しておきました。なお、当時は水下、入谷は別々でしたので、そのままにしておきました。

若衆制度があった当時、その実態は厳しかったようですね。

それから「稲小百年史」は手元にあります。当時、一生懸命読みましたが、斜めに読んだ部分もあります。もう一度読み返してみようと思っています。

今後もよろしくご教示お願いします。有難うございました。

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