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あらまきのはじまりー上2023/12/01

先日ヤマハンノキHWを歩いた時、「中の平」で新田開拓の記念碑の刻文をあらためて読んだことが切っ掛けになって、帰宅してから石原驍さんの「伊豆の史伝 下巻」を開いたところ、幸運にも「あらまき」の紹介記事を見つけることが出来た。それによると、「中の平」の開拓で名高い八代善次が大正年代に「あらまき」の原野を切り開いた事実を知る人は少ないという。まさにこの記述は私が以前から気になっていた「あらまき」の資料として貴重なものだった。 

稲取は平地が少なく、丘陵が入り組んだ地形である。隣の河津と比較できないほど水田の耕作面積は少なかった。それでも養蚕やミカン栽培が好景気の波に乗っている時は良かったが、第一次大戦後の不景気が襲った時、農村経済も疲弊の道をたどっていった。そんな時、米作りに立ち上がったのが入谷の二人の青年だった。記念碑の刻文にある八代善次と山田耕夫だ。 

昭和3年1月に着工し5年8月に竣工するまで様々な難局があったが、新田開拓をやり遂げた二人の努力は現在でも立派に結実している。現在は水田が僅かに2カ所にしかなく、殆どが園芸用ハウスで占められている。稲取では各所でイチゴやカーネーションの栽培で生き残りをかけているように見える。「中の平」も先人の努力を立派に引き継いでいると言えるだろう。 

「中の平」と並んで原野を開拓して農地に変えた「あらまき」について、「中の平」ほどの物語を聞かないのは片手落ちではないかと、最近、その知識の少なさを感じ始めている。きょうの訪問はその知識を深める意味で収穫があった一日だった。「あらまき」やその周囲はそもそも八代一族の原野だった。

先ずは国道から1時間足らずで山の神さまに上がり、旧道のJAの倉庫前から大久保橋を渡って農免道路を横切り「あらまき」への道を下る。下り始めの道路際にイソギクが群生しているのに気づいた。ここは夏の終り頃からコスモスがやはり固まって咲いていたので、その変わり身に驚き写真を2~3枚撮った。そして振り向くと、ご婦人が一人坂道を上って来るところだった。照れ隠しに声を掛けると、意外な話が始まる奇縁となったのである。


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