田圃の風景 ― 2010/07/26
「江戸時代の検地によると稲取の石高は310石余で、3000石といわれた隣村河津の十分の一ほど」(金指徹「稲取風土記)
稲取は山が入り組んでいて、平坦な場所はあまり多くはありません。そのため、昔から田圃の作付けは少なかったようです。それでも、村人の努力で、志津摩川や大川の水源から水を引いたりして、少しずつ耕地を増やしてきました。
しかし、戦後の経済復興の波が稲取にも押し寄せ、養蚕やミカンの栽培、そしてハウス栽培へと農業の形態が変わるにつれて水田が減ってゆく運命にあったようです。
稲取の山奥から海岸線に至るまでの広い地域を、暇さえあれば歩いてきた私は、畑はあっても田圃は目にしたことがないと‘思っておりました’。ところが、先日、“田の上”の”鉢植え”農家の方から、一つだけ志津摩に水田があると聞かされました。
国道135号沿いの“さくら介護”の向かいから権現線遊歩道をいつものように上り、途中、吾妻権現神社への道と別れて一望閣方面へ向かいます。この遊歩道入口からはわずかな上りで急坂から解放され平坦なコースがつづくので、私の好きなコースの一つとなっています。そして、ほどなく前方が開け、ゆるやかな南斜面にハウスやミカン畑が広がり、何故か、‘我が谷は緑なりき’の感想を持つことになるわけです。
ところで、その‘我が谷’、“田の上”で農家の方からお話を聞く機会がありました。鉢植え棚の脇に2,3坪の貯水池があり、透きとおったきれいな水がホースから流れ落ちていました。鉢植え棚のパイプからは無数の小さな穴を通して水が散布されています。
「この水は上の沢から引いてきた水だよ」
「あんまりきれいなので湧水かと思いました」
「昔はもっときれいだったけどね」
「この辺は水が豊富ですね」
「前は、ここは田圃だったけど、人手が無くなってやる人がいなくなった」
そして、この“我が谷”はおろか稲取中でも、水田は今やたった一つだけになったと言います。それが実は志津摩にあるというのです。
早速、調べてまいりました。ところがです。それはあろうことか、いつもの私の散歩コースの途中にあったではありませんか!
“堂の前”の賽の神さまに頭を垂れ、国道に並行するように山側の住宅地を右往左往して最後の民家を過ぎ、山のほぼ最高部にあるハウスの裏から志津摩川(?)に沿って降りてくると、“通信販売センター”の看板がある徳造丸のビルの脇に出ます。ここを走る国道を数メートル河津よりにゆき、国道を横切って志津摩の海岸へ通じる道をゆきます。
やがて道が細くなって伊豆急の線路を目の前にしたところで、“あっ!あったあ”というわけです。棚田ふうの田圃が5枚(?)、線路を挟んだ先に2枚ありました。この道はもう何度も歩いた道です。どこかの山の神さまから“どこに目を付けているのよ!”と、どやされても仕方ありません。
稲取にただ一つ残った水田は水面上に青々とした穂を浮かべていました。こうしてあらためて見ると美しい風景です。志津摩川の豊かな水を得て、秋には黄金色の穂を垂れることでしょう。

最近のコメント