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ゴルフの練習について2023/08/03

稲取の「水乗り」に稲取保育園と野球場があり、その間の小道をたどると「花の咲く丘公園」の向いにも町営のグラウンドがあります。こちらの方は使用目的が限定されていませんで、”多目的グラウンド”なのだと思います。

ここにようやく「ゴルフ禁止」の立て札が立ちました。私どもはこちらに移住して間もなく15年になりますが、最初の頃から苦々しい思いでゴルフの練習をする人たちの姿を見てきました。時には大声で注意もしたことがありました。一時影を潜めた時期があっても、またぞろ多くの人を集めて玉の打ち合いをしていました。

ゴルフの練習はゴルフ練習場か本番のコースを使ってやらないと、きわめて危険な遊びです。クラブで打った球は時には凶器に変わってしまうことがあるのです。ですから、ゴルフ専用の練習場でしか練習する場所はないと認識すべきです。ゴルフはそういうスポーツなのですから。

大相撲の張り手2022/11/28

大相撲九州場所は昨日、三場所連続平幕が優勝という結果で幕を閉じました。横綱不在の場所はやはり少し寂しいですね。ところで、今場所あらためて気が付いたことがありました。張り手のことです。この四十八手の一つでルール上、容認された手ではあります。しかし、今の時代、どうでしょうか。この時代にふさわしいといえるでしょうか?一般に暴力に対する拒否反応はかつてないほど高まっています。こうした流れでは人の顔を叩く光景を見せられると、スポーツであれ何であれ、見苦しいと思う人が多くなっているのではないでしょうか?

          ふれあいの森で今日見つけたマンリョウ 

相手の顔をひっぱたいて、相手がひるんだところで先手を取って攻撃する、というのが相撲の“張り手”です。一種の卑怯な手といっても言い過ぎではないと考えます。先に引退した横綱の一人はその最も充実した頃にはその“手”を使うことはなかったと記憶します。それが横綱としての晩年には殆どの取り組みでその”手“を使っていました。同格、あるいは上位の者に対して使うならともかく、下位の者に対してその”手“を使っていたのです。これを見て見苦しいと思われた方が多かったことと思います。実際、それが不人気の評判にも繋がっていました。連勝を重ねたその横綱は、その”手“を使うことになった頃は本人自身、力の衰えを感じていたのだと思います。つまり、衰えを”張り手”でカバーしようとしたのです。言い換えれば、その時に“張り手”ではなく引退を選択すべきだったのです。彼の残した金字塔にキズが残ってしまいました。 

ところで、今場所いや少し前からその”手“を使う大関が現れて驚きました。特に今回の千秋楽の取り組みで喧嘩でもしているように乱暴な”その手“を繰り出したのです。勝負には勝っても、後味の悪い印象が残りました。そしてその後の優勝決定戦では、”その手“を繰り出した瞬間に相手方は”その手“が自分の顔に当たる僅かなスキを捉え、見事先制攻撃に成功し優勝旗を勝ち取りました。右手なら右手で張り手を使えば、右脇が開きます。そのスキを相手方が突いたのです。アッパレ!ですね。 

今朝の新聞を読んで、今行われているサッカーワールドカップの記事の中に「伝統は変革を伴ってより良い伝統を産む」というような記事が印象に残りました。これは日本代表チームの歴代監督の各時代に合った指導理念を説いたなかでの発言で、制度やルールについての話ではありませんが、同じようなことが大相撲のルールにも考えられます。大相撲もこれまでそれなりの改革を遂げて現在があるのですから“張り手”を禁じ手にして四十七手に変える勇気を是非持ってほしいと思います。


ゴルフの練習は2022/11/08

東伊豆町のHPを覗くと、クリーンセンターの南側に新グラウンド、保育園の横には野球場、とマップに記されています。ところが、野球場の北隣りにも現に広場がありますが、その説明がありません。以前の町のHPでは確かグラウンドの名前が付いていたと思うのですが。「多目的広場」だったでしょうか? 

この広場の前を通ったらゴルフの練習をしているグループがいました。皆さんアイアンのクラブを振っています。数年前にある人から、この広場でのゴルフの練習は以後やめると関係者が申し合わせたと聞きました。しかし、2,3年前からまたぞろ、ボールを打つ人の姿を見るようになりました。そして、この写真は今日のことです。こんなに大勢でクラブを振っているのは今までにも見たことがありません。
 
ゴルフの練習はネットの囲いがある施設内でないと極めて危険です。この人たちは然るべき許可を取っての行動でしょうか? 



迸る蛇口に四苦八苦2022/02/04

キチンの水栓から水が迸り出るようになってかなりの日数が経ち、さすがに最近は、なんとかならないの、とブツブツ言う声が聞こえてまいりました。アーム状になって伸びている水栓の根元から水が漏れて来るんです。蛇口の先に浄水器を取り付けているのでその重さでアームが傾いています。応急処置として彼女は水の漏れて来る部分を布切れで縛って、飛び散る水を辛くも抑えるようにしていました。私は衛生上、よくないなと思いながらもそのうちにそのうちにと、手を付ける機会を徒に繰り延べしておりました。

曇り空のきのうは外に出る気力もなく、それならと、この問題に区切りをつけてやろうと一大決心をして台所に立ったのであります。私はだいぶ前、千葉にいた頃にキチンの蛇口を修理して点数を稼いだことがありました。ただし、今回は自信がありません。蛇口と水道を繋ぐ10センチほどの導管に付いたネジがトンデモナイほど硬くて回らなかった記憶がありました。こんなには水が漏れてない状態の時の話です。それなら酷くなるまで放っておけ、と言うわけで今回の話になります。
                 浄水器とカートリッジフィルター
さて、現状で先ず考えられるのがアームが導管との接点でガタガタ緩んでいることです。これを硬く締めなければなりません。ところがアームは水平に180度しか回転出来ません。ここのキチンは狭く、シンクは壁に向かって付いているのです。そこで、水道と繋がっている導管を外さなければなりません。

その導管のネジはさいわいプライヤーで何とか緩めることが出来まして、先ず導管を外しアームを回して導管に硬く接続しました。これでアームの傾き、ガタガタは解消されたはずです。一丁上り!というわけで、導管ごと水道に繋ぎなおし蛇口をひねったのであります。ところが、ところが水道の神さまは笑って再び水を吹きだしたのであります!

問題は導管とアームの接点にはない。”首をひねった挙句”に、とりあえずアームに付いている浄水器とカートリッジを外したところ、先ず第一にカートリッジフィルターに記入した期限がだいぶ過ぎているということ。そして第2に浄水器の、アームとの接合部分が黒っぽいもので覆われており、爪楊枝でこすってみたら何とコールタールのような液体がべっとり付着したではありませんか!これでは水道の水は簡単にはカートリッジフィルターに入って行けないではありませんか!当然それなりの負荷がかかって、その圧力が導管とアームとの接点にかかってしまう!アームは普段、しょっちゅう右に左に180度以内で動かします。従って多少の緩みを持たせておかなくては意味がない。その僅かな間隙を突いて水が噴き出してくる。こうしてようやく納得できたのであります。

現在は、浄水器とカートリッジは取り外したまま水は順調にアームの根元から吹きだすことなく、蛇口からのみ落ちてきております。あとは注文したこの2点が届くのを待つのみ。メデタシメデタシ!


謹賀新年2022/01/02

新年おめでとうございます。
今年は好天で明け、現在の穏やかなお天気が続いています。
今年がなお穏やかな年でありますように、お祈りいたします。

暮れにPCをリフレッシュしようと、去年1年間の画像を外付けのハードディスクに纏めて移し、ついでに「ドキュメント」をバックアップしたつもりでいたら、年を越した昨日、PCの「ドキュメント」の中身が無くなっているのに驚かされました。「コピー」したつもりが、「移動」されていたのでした。そこで、当然にもドキュメントのファイルすべてを元に戻しておきました。

ところが、あとになってトラブルが発生。メールを開けようとしたら、「データーファイルが見つかりません」のメッセージが出てメールソフトが開きません。以前見たことがある、「・・・pst」というデーターファイルがどっかへいってしまったようです。PCの中を検索しても見つかりません。よわりました。多分、「ドキュメント」の移動作業を結果的にしてしまったのが原因なのでしょう。

もうひとつ。プリンターのスキャナーで元日の新聞のある記事をPCに取り込もうとしたら、「通信に失敗しました。PCとの間の通信を確認してください」のMSGでうまくゆきません。つい先日順調だったのが突然不調になりました。PCとプリンターの間はUSBケーブルで直接つないで使っています。スキャナーは使わずにPCのあるファイルを「印刷」してみたらOKなので、USBケーブルに問題があるわけではありません。以前使っていたプリンターにはSDカードの挿入口があったのですが、現在の安物には付いていないのでSDカードへの保存も出来ません。

やれやれ、新年早々、問題を二つ抱えてしまいました。余生の残り少ない時間をこんなことで浪費したくはありません。毎度申し上げますように、WIN98の時代は心安らかな時代でした。PCを使う目的を”直接的に果たしてくれた”時代でした。そこには余分な付加価値などなく、それらに惑わされることもなくスンナリと目的を達成することが出来ていました。最低限の”入れ物”に自分なりに努力すればある程度の物を入れることが出来、相応の満足感があったものでした。現在はそうした時代ではなく、要求もしていないのに勝手にこれはどうだ、これもどうだと押し付けてくる。オレオレサギのようなものでうるさくて仕方ない!

便利なようでいて人間をダメにしてしまう。”文明”はどこへ向かおうとしているのか、空恐ろしくさえなってきます。年頭の所感がとりとめのないつまらない話になりました。