<><><><><><><><><><><><><><><><><><>

サプリメント2010/12/01

ミカン畑


中川でミカンを収穫中のオバアサンに声をかけたら、丈の長い脚立から降りもせずに熱心に糖尿病の話をしてくれました。実はこの方はペンションマスカレードの大女将でした。

近年まで時折襲ってくる頭痛に悩まされたが、ついに彼女にとっての特効薬を見つけ、それを服用したら2ヶ月で治ったと言います。これは病院で処方される医薬品ではなく、クロロホルムを原料にしたサプリメントだそうです。

健康は山のような薬を飲んで維持するのではなく、サプリメントを含めた食品をしっかり摂ること、そして働くこと、運動することで獲得するものだと力説されました。医学用語もポンポンと出てくるお話には、聡明さの中に勉強熱心がうかがわれ感服いたしました。


歩きながらでも食べたらいいと、ミカンを頂きました。今、山は至るところミカンで埋め尽くされています。



石垣2010/12/02

石垣の上から


きのうは字中川でマスカレードの大女将からお話を聞いたあと、つづいてまた、一望閣の上のやはりミカン畑で足を止めました。おじいさんが高い石垣のきわどいところで作業をしています。

この石垣の部分は先代が築いたもので、坂の少し上のところはお若いときにご自分で積み上げたのだそうです。石垣でも比較的大きな石の積み重ねなので、人夫と一緒に築いた“作品”ということでした。曲がり角の部分などは城の石垣のように美しい線を見せています。

石積みは慣れてくると、持ち上げた石をどこに積んだらうまくはまるかの勘ができて楽しくなるものだと言います。そんなあけすけな話を聞いて、あらためてこの方の顔を見直しました。

それから、その石垣に沿ってマキの木が整然と並んでいるのにも目を奪われます。そのマキの木にもこだわって、丁寧に一本ずつ植え込んだとも聞きました。このマキの木を単に防風のためにやたらに植えつけてしまうと、日陰を生じてミカンの生育に悪い影響を与えるということで、今ちょうど作業している部分にはマキの木はありません。

その部分はミカンが枝もたわわに実っていて、その中で紙袋がしてあるミカンがありましたので聞いてみると、これはデコポンで、集団でやってくるヒヨドリから守るためだということでした。隣の木の甘夏には袋がかぶさっていません。

こうして話を聞いている間に、近くの例のミカン運搬機が下へ動いてゆく音が聞こえてきました。振り向いたときには、既にミカンの木々の陰に消えてゆくところでした。最初の発進するところから見ておきたかったと悔やまれます。確か、人が乗っていたように見えましたが・・・。

お話の最後に、この辺は字吉久保で、この谷一帯は稲取では数少ない田圃の一つだったということでした。きょうはこれで作業の邪魔をしたことを詫びて散歩の足を更に“平並ハイウエー”へと向けました。




十月サクラ2010/12/03

ノウゼンカズラの実


<承前> 吉久保の谷から更に上がってゆきます。

“山田の大家”さんの手前で、大川を渡った先の石垣にノウゼンカズラが赤い実をたくさん付けていました。夏の間赤い花をこぼれ落ちるほどに咲かせていましたっけ。

“平並”ハイウエーをひたすら歩いて水生の庄を過ぎ、右へ曲がってクリーンセンター東河に出ようとしたところで、ふと頭上にマメザクラが咲いているのに気が付きました。かつてmonma さんから教えていただいた十月ザクラです。今年も咲きました。

左右に2本ずつ、そしてセンターとグランウンドの間に1本、計5本の木がすべて咲いています。中に八重桜がありました。小さな可愛い花です。

突き当たりを左で水生の庄



戦勝記念のサクラ2010/12/04

ススキと柿


ホクトのおじいちゃんは大正生まれの95歳。こうして石段に座って肩を並べ、まじまじとお顔を眺めると艶があって皺がないのに驚かされます。でも、さすがに杖をついて先程歩いていた姿は一歩一歩慎重でした。膝が痛むらしい。

21歳で兵役につき、支那事変で大陸に渡って7年間苦労したのが、今膝にきていると言います。当時兵役には3年半従事するのが男子の義務だったが、日露戦争の頃なら知らず、支那事変の頃には既にその期間で退役できる余裕はなかったとのこと。

それでもおじいちゃんは、兵隊生活でいろいろ教えられて一人前になった、有り難いことだ、と言います。良きにつけ悪しきにつけ、今の時代では考えられないたくさんのことが経験できたと目を細めます。

今の正美堂眼鏡店の場所には当時バスの駅があり、そこから‘歓呼の声’に送られながらこの坂下まで歩いて、あとはバスに乗って熱海までゆき、汽車に乗り継いで静岡の何とかという連隊に入隊したのだそうです。

春にこの坂を見事に彩る桜並木は、日露戦争で戦勝にわいたころの記念の植樹だったと言います。すると、ほぼ百年。一本は台風で倒れたそうで、残っている木も勢いがなく枝ぶりは衰えています。それでも、今年の春も立派に花を咲かせました。

赤い花を一つだけ付けたあのブラシの木は石垣の上にあります。これはおじいちゃんが20年間勤めた伊豆バイオパークの枝を挿し木したものと聞きました。オーストラリア原産で、学名のカリステモンという名まで教えてもらいました。ちなみにこの学名はウイキペディアによるとギリシャ語で、美しいオシベという意味だそうです。

かいた汗が冷たくなってきて腰を上げると、またいつでも寄りなよ、と声をかけてくれました。元気なおじいちゃん、また話を聞かせてください!




たるがの2010/12/05

“たるがの”という語を聞いたのは、エビ漁が解禁になった日の朝、“トウサン払い”がエビ漁の収穫に沸いているときでした。その中の一人がそっと教えてくれたのです。

そこは志津摩の海岸から見通せる断崖絶壁の難所です。でも、滅多にない釣のメッカで、大物が面白いように釣れるということでした。また、昭和の30年代のある日に泊まりで来た釣客が波にさらわれて3人が死んだという話もありました。

きょうは風も穏やかな行楽日和。志津摩の先へと足を伸ばすには絶好のお天気。いつものように二つ掘り~水下~下平塚~井の際~藤が沢と来て、今回は坂下川を渡り河津町見高に入ります。その後、ミカン畑の間をくねり、“たるがね”に落ちる台地の尾根に回りこんで、ミカン販売店の丸弥園の裏から国道135に降りました。

この丸弥園のご主人に道を聞くと、有り難いことに手帳に地図まで書いて教えてくれました。岸壁への降り口は簡単には見つからないだろうと、覚悟していただけにラッキーでした。


見高入谷口の信号を過ぎ、次のT字型信号の手前、内田石材店・遠藤材木店の前に細い道があり、舗装のなくなった場所に2台の車が駐車してありました。釣り客がいるなと思いながら小道を降りてゆきます。


小道はよく整備されていて、危険なところにはロープが張ってあります。断崖を覗くと、人が岩伝いに移動しているのが見えました。かなりの高度感です。特にロープや木につかまることもなく注意して降りてゆくと、ついに“たるがの”の全容が目の前に迫ってきました。凄い景観!


眼下に二人の釣り人と、手前の海上の大岩に二人、そして移動中の一人、計5人が先客でした。風触したギザギザの岩には手がかり足がかりが十分にあり、安心して移動できます。志津摩の方向に回り込むと、あの“オフネ石”が見えます。背景は今日も通る志津摩の遊歩道。

“たるがの”は別世界のような釣り人の楽園でした。