ある人生― 修行時代 ― 2024/09/30
中学を卒業して稲取高校の水産科に入りたかったが、家が貧しく親に無理を言うことは出来ないので就職することにした。そんな折、どういうわけか、中学校の校長先生自身が彼の就職希望を知って沼津の電気工事会社を紹介してくれた。この会社に入って驚いたのは40人もの社員がいて、沼津はもとより下田北校など優秀な人材が多かったことだ。彼自身は稲取の中学校を卒業しただけで入社出来たので評判にもなった。
結局、この工事会社には2年半在籍して、現場を通じて様々な技術上の知識を習得した。その甲斐あって電気工事士の国家試験に合格出来たのだった。しかし、このままでは納得できない思いがあった。自分の目標は何なのかと改めて考えた時に、先ず、工事現場の実際の技術もさることながら、その技術を施工するための図面が引けるようにならなければならない、ということだった。詰まり、電気の法則やその様々な理論を人に説明できるような知識を積み上げたい。そこで新宿にある夜間の日本電子専門学校に入学。昼間は赤門近くの家電屋兼工事会社に勤務することになった。
黒根橋の手前で、オシロイバナ
ところが、約半年ほど世話になったが、やはりこの先が心配になった。厳しいと言われる東電の審査に耐え得る実績を残せるか危機感が募り、たまたま元住吉の東急電鉄で電車の電気工事士を募集していることを知って早速応募、与えられた仕事は電車の車両にヒーターを取り付ける作業だった。最初は自信がなかったが、とにかく一つずつ慎重に確実に作業を進め、遂にこの仕事を成し遂げた。東急電鉄では社員の前で表彰を受けたのは一つの金字塔である。そしてこの仕事によりグループ会社の伊豆急電鉄に認められ、更に同じグループの一つ、相模鉄道のATSの配線工事の仕事も請け負うことになった。ATSは当時各社で盛んに導入され始めた安全装置の最も基本的な新しい技術である。そんなことから変電所でも通用する光学機器製造技能士の試験にもチャレンジを試みたこともあった。
その後、思い出に残る仕事の一つに、天皇陛下のお召列車の一つの車両に「折り戸」(ドアの半分が折れて開閉する)設置の仕事があった。それから、昭和53年の伊豆大島近海地震後、江ノ電の仕事が舞い込んだ。運転手の声を外部に知らせるスピ-カーの交換の仕事だった。一つの車両のスピーカーボックスに穴が開いているので箱を交換する作業である。話を聞いただけでは簡単な仕事だが、そのボックスの中には100本もの配線が含まれていて、それがそれぞれの決まった端子に繋がっている。100本の配線を抜いてボックスを新しく交換し、さて、各配線を元の端子に戻さなければならない。1本たりとも間違って接続してはならない。とにもかくにもやっとの思いで完成させると、ホッとして車両を引き渡した。
ところが実際に運用中にこの車両が火災を起こしたのには仰天した。自分としては確実な作業を終了させた自負がある。しかし、結果が「車両火災」と出たからには、やったことに対する自己責任を放置するわけにはゆかない。腹をくくることにしたのだった。会社の職長には「調査の結果を待ってろ」と言い渡された。会社側に受け渡した後の検査、そして試運転も合格している。従って、職長は彼には落ち度がないという確信があったのだろう。案の定、調査結果は、運転士の操作ミスによることが判明した。やはり彼の責任ではなかったのである。
もうひとつ、木造3階建ての熱川の大東館が火災で全焼した事件があった。ちょうどその時、彼もそこで配線の仕事をしていた。配線の仕事には銅線を繋ぐ作業が付き物で、これは当時、圧着機を使うのが常識となりつつあった。ところが古い常識も残っていて、銅線を丸めて半田付けする悪習が残っていた。このやり方だと時に接触不良を起こして火が出ることがある。彼は消防署の分団に加入していた時にその現場を直接目の当たりにして、その事実を認識していた。それ故、悪習に手を出すことはせず、圧着器を使った完璧な作業を心がけていた。この大東館の火事の現場に残された彼の仕事の痕跡は完璧な作業そのものだった。実は、大東館の従業員の電気係が火災報知器のスイッチをオフにしていたのが大火につながってしまったということと、ボードの上に湯沸かし器を設置していた為、ボード自体が炭化してそこから火が出たことが判明したのだった。
こうした彼の修行時代とその後の様々な体験は、彼の職業人としての血となり肉となっている。そこには彼が常に仕事に前向きに向き合って数々の実績を残してきたこと、電気工事士として考えられるすべての技能や理論を積極的に学ぼうとしてきた姿勢が印象に残る。業界の多くの人に愛され、支援を得てきた所以である。
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