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図書館 ― 2009/08/14
東伊豆町立図書館は奈良本にあります。きょう女房殿と一緒に初めて訪ねてみました。バスは熱川の手前で135号線を離れ、山側へ上ってゆきます。間もなく、静和病院前あたりの小橋バス停で下車。ここにはカネカストアがあります。
このスーパーで昼食の弁当を買い、その裏の坂道を上がると熱川小学校が左に見えてきました。図書館はその前の新しい建物です。
一階ロビーから中へ入るとカウンターがあり、その前にズラリと書庫が立ち並んでいました。想像していた以上の規模です。
私たちは先ず昼食を済ませようと、係員の方に断って2階のロビーを使わせていただくことにしました。2階は普段、特別なイベントが無い限りクローズされているようです。
ロビーにはテーブルと椅子が4脚あって、ここで食事ができます。他に和室、視聴覚室(ステージ付)や小部屋がありました。いずれも予約すれば使えるようです。いずれも立派な部屋なので、もっと利用されても良いのではないかと思いました。
図書室は広く、DVDやビデオの視聴ができます。書庫の所々に椅子が置かれて配慮が行き渡っているのを感じました。また、窓際の明るい場所には大きなテーブルがあり、ここで学習や調べものができます。高校生が4,5人それぞれ勉強していました。
私は稲取地区や東伊豆町の歴史の本を探したのですが、検索画面では見つかったにもかかわらず、いずれも在庫はありませんでした。残念!その代わり、立派な柳田國男の全集ものがあったのは収穫でした。
2時間ほど読書したあと、帰りは片瀬白田駅まで山越えすることにしました。図書館自体が高台にあって、白田川が流れるフィールドへはほぼ下りになります。しかし、あろうことか、高台から少し上がった尾根上で、方向を逆にとるミスを冒してしまいました。
尾根状の道に上がったところで向こう側への道を下る予定だったのが、工事中の看板が立っていて通行禁止になっておりました。それでも、様子を見に下りてみると、私一人なら強行突破は可能ですが、女房殿が一緒では難しいと判断して、看板の所まで戻りました。
それからです。迂回する道を検討して、尾根状の道を北上することにしたにもかかわらず、結果的に南へ向ってしまったのでした。
戻ったときに方向感覚が全く逆になっていたのです。途中、運良く人に会って道を聞き、間違っていたことを知りました。
今年になって山の中で2度道に迷い、ひどい目にあっています。そのときに転げ落ちて傷をつくった痕がまだ生々しいのに、この辺の何でもない台地で道を間違えるとは!
最近、膝のあたりが順調でない女房殿の黄色い声が、しばらく高々と鳴り響いたのは言うまでもありません。急な下り道をなだめすかして、ようやく白田川に降りてきました。コーヒー店が近くにないので、定食やさんで冷たいものを飲んで一息ついたのでした。
このスーパーで昼食の弁当を買い、その裏の坂道を上がると熱川小学校が左に見えてきました。図書館はその前の新しい建物です。
一階ロビーから中へ入るとカウンターがあり、その前にズラリと書庫が立ち並んでいました。想像していた以上の規模です。
私たちは先ず昼食を済ませようと、係員の方に断って2階のロビーを使わせていただくことにしました。2階は普段、特別なイベントが無い限りクローズされているようです。
ロビーにはテーブルと椅子が4脚あって、ここで食事ができます。他に和室、視聴覚室(ステージ付)や小部屋がありました。いずれも予約すれば使えるようです。いずれも立派な部屋なので、もっと利用されても良いのではないかと思いました。
図書室は広く、DVDやビデオの視聴ができます。書庫の所々に椅子が置かれて配慮が行き渡っているのを感じました。また、窓際の明るい場所には大きなテーブルがあり、ここで学習や調べものができます。高校生が4,5人それぞれ勉強していました。
私は稲取地区や東伊豆町の歴史の本を探したのですが、検索画面では見つかったにもかかわらず、いずれも在庫はありませんでした。残念!その代わり、立派な柳田國男の全集ものがあったのは収穫でした。
2時間ほど読書したあと、帰りは片瀬白田駅まで山越えすることにしました。図書館自体が高台にあって、白田川が流れるフィールドへはほぼ下りになります。しかし、あろうことか、高台から少し上がった尾根上で、方向を逆にとるミスを冒してしまいました。
尾根状の道に上がったところで向こう側への道を下る予定だったのが、工事中の看板が立っていて通行禁止になっておりました。それでも、様子を見に下りてみると、私一人なら強行突破は可能ですが、女房殿が一緒では難しいと判断して、看板の所まで戻りました。
それからです。迂回する道を検討して、尾根状の道を北上することにしたにもかかわらず、結果的に南へ向ってしまったのでした。
戻ったときに方向感覚が全く逆になっていたのです。途中、運良く人に会って道を聞き、間違っていたことを知りました。
今年になって山の中で2度道に迷い、ひどい目にあっています。そのときに転げ落ちて傷をつくった痕がまだ生々しいのに、この辺の何でもない台地で道を間違えるとは!
最近、膝のあたりが順調でない女房殿の黄色い声が、しばらく高々と鳴り響いたのは言うまでもありません。急な下り道をなだめすかして、ようやく白田川に降りてきました。コーヒー店が近くにないので、定食やさんで冷たいものを飲んで一息ついたのでした。
テッポウユリ ― 2009/08/15
東伊豆町では今テッポウユリがあちこちで咲いています。白く清楚でツーッとラッパを伸ばしたところがいいですね。盛夏に一服の涼感を与えてくれています。
ネットで調べてみたら、同じテッポウユリでも筒の部分が若干赤く、葉が細いところをみると、この花は高砂テッポウユリかも知れないことが分かりました。原産地は台湾です。
常に下を向いているエンジェルトランペットよりは小さく、横向きか斜め上を堂々と見ています。
きのう東伊豆町の図書館からの帰り道で、民家の庭や生垣に咲いているのを見かけました。中には庭いっぱいに咲かせているお宅もありました。わが天王さんの坂の、この間うち紫君子欄を見事に咲かせていたお宅の庭に、何時の間にか白い裸身があまた出現しました。ほんの2,3日、ご無沙汰しただけなのに嬉しい変わりようです。
盛夏にいつも見慣れた百日紅の赤い花も各所で見られるようになりました。ただ、白い花は未だ見ていません。どこで咲き出すか楽しみです。
もうひとつ、習志野ではいやというほど見せ付けられたキョウチクトウはここではもう時期を過ぎたのでしょうか、あまり目にしていません。ヤオハンの駐車場に早くから咲いていましたけど。
ネットで調べてみたら、同じテッポウユリでも筒の部分が若干赤く、葉が細いところをみると、この花は高砂テッポウユリかも知れないことが分かりました。原産地は台湾です。
常に下を向いているエンジェルトランペットよりは小さく、横向きか斜め上を堂々と見ています。
きのう東伊豆町の図書館からの帰り道で、民家の庭や生垣に咲いているのを見かけました。中には庭いっぱいに咲かせているお宅もありました。わが天王さんの坂の、この間うち紫君子欄を見事に咲かせていたお宅の庭に、何時の間にか白い裸身があまた出現しました。ほんの2,3日、ご無沙汰しただけなのに嬉しい変わりようです。
盛夏にいつも見慣れた百日紅の赤い花も各所で見られるようになりました。ただ、白い花は未だ見ていません。どこで咲き出すか楽しみです。
もうひとつ、習志野ではいやというほど見せ付けられたキョウチクトウはここではもう時期を過ぎたのでしょうか、あまり目にしていません。ヤオハンの駐車場に早くから咲いていましたけど。
伊豆稲取の灯篭流し ― 2009/08/16
散歩から帰ってきた女房殿が、役場前で5時半から灯篭流しが始まるそうよ、と教えてくれました。下の道のKさんから聞いたそうです。ついでに、今年、去年、おととしの3年間に亡くなった方の灯篭だそうです。
伊豆稲取の灯篭流しはどんなものかと、お盆ウィークに入ってから気になっておりました。当地の年中行事の一つとして、その様子を是非とも撮影しておきたかったのです。
ところが、その話を聞いた時はちょうどいつものランニングに出るところだったので、仕方なく、後でベランダから見ることにして今年はお茶を濁すことにしました。
一回り走って帰ってくると、市場前に喪服姿の人たちがいっぱい集まっているのが見え、そろそろ儀式が始まりそうです。私は急いでシャワーを浴びに浴場へと降りてゆきました。
しかし、戻ってくると、もはや儀式は終わり、船が2艘港内をゆっくり巡回しています。時刻は7時を過ぎて、夕闇の中に甲板に渡らせた照明だけが海の上を走っていました。
女房殿の話ではさっきからもう数回も、波止場の中を巡回しているそうです。そのうち、Kさんの話のように、外海へと2艘とも出てゆきました。灯篭を外海で流すのかしら?
でも、外海に出たところはテングサやアワビなどの漁場でもあります。生業の大切な場所に灯篭を流すようなことは考えられません。
私たちの視界から消えて、30分くらいたったと思われるころ、船は戻ってまいりました。その後、接岸して灯が消え、間もなく車の尾灯と思われる赤い灯が次々と動き始め、やがて闇に消えてゆきました。
さて、灯篭を載せたと思われる2艘の船が外海で灯篭を流してきたものか、それとも、何らかの儀式を船上で済ましてきたものか、結局分からずに終わりました。来年はその顛末をしかと見届けたいと思っています。
伊豆稲取の灯篭流しはどんなものかと、お盆ウィークに入ってから気になっておりました。当地の年中行事の一つとして、その様子を是非とも撮影しておきたかったのです。
ところが、その話を聞いた時はちょうどいつものランニングに出るところだったので、仕方なく、後でベランダから見ることにして今年はお茶を濁すことにしました。
一回り走って帰ってくると、市場前に喪服姿の人たちがいっぱい集まっているのが見え、そろそろ儀式が始まりそうです。私は急いでシャワーを浴びに浴場へと降りてゆきました。
しかし、戻ってくると、もはや儀式は終わり、船が2艘港内をゆっくり巡回しています。時刻は7時を過ぎて、夕闇の中に甲板に渡らせた照明だけが海の上を走っていました。
女房殿の話ではさっきからもう数回も、波止場の中を巡回しているそうです。そのうち、Kさんの話のように、外海へと2艘とも出てゆきました。灯篭を外海で流すのかしら?
でも、外海に出たところはテングサやアワビなどの漁場でもあります。生業の大切な場所に灯篭を流すようなことは考えられません。
私たちの視界から消えて、30分くらいたったと思われるころ、船は戻ってまいりました。その後、接岸して灯が消え、間もなく車の尾灯と思われる赤い灯が次々と動き始め、やがて闇に消えてゆきました。
さて、灯篭を載せたと思われる2艘の船が外海で灯篭を流してきたものか、それとも、何らかの儀式を船上で済ましてきたものか、結局分からずに終わりました。来年はその顛末をしかと見届けたいと思っています。
「わが母の記」 ― 2009/08/17
先日、奈良本の図書館で井上靖「わが母の記」を借りてきました。この本は埼玉福祉会の出版で、活字が大きく読みやすくなっています。講談社の文庫版が底本となっているそうです。
故人となられたが、日本文学界の大家が書いた“母の記”ということで、興味がありました。伊豆湯ヶ島の郷里で父が亡くなったことから筆を起こし、その時点で既に母の老耄、ボケがかなり進んでいたことを知ります。
語り手である主人公の実の妹がその後しばらく東京で母の面倒を見たあと、郷里に戻った姉が引き受けることになります。その間、ボケの様々な症状とともに、世話をする人たちの生半可でない苦労が語られてゆきます。
話は母の死で終わりますが、主人公の深い愛情と登場人物たちの優しさが、読み終わってからふつふつと湧き上がってくるのを覚えました。
私たちの母もこの4月に亡くなりました。父が亡くなったときは私なりの総括が私の頭のなかで出来上がりましたが、母の場合は4ヶ月経った今もケジメができていません。
実家を離れてからは母との触れ合いは殆どなく、それ以前となると記憶もあまり残ってないのです。私自身も老いが進んでしまったということでしょうか。
それにもかかわらず、いや、ケジメが出来ていないからこそ、著者が言う、それまで親が間に存在して見えにくくなっていた“死”と未だ対面出来てない幼い私がいるのを感じています。
肉体が衰える前にケジメが出来るかどうか、私にとって今一番の問題です。
故人となられたが、日本文学界の大家が書いた“母の記”ということで、興味がありました。伊豆湯ヶ島の郷里で父が亡くなったことから筆を起こし、その時点で既に母の老耄、ボケがかなり進んでいたことを知ります。
語り手である主人公の実の妹がその後しばらく東京で母の面倒を見たあと、郷里に戻った姉が引き受けることになります。その間、ボケの様々な症状とともに、世話をする人たちの生半可でない苦労が語られてゆきます。
話は母の死で終わりますが、主人公の深い愛情と登場人物たちの優しさが、読み終わってからふつふつと湧き上がってくるのを覚えました。
私たちの母もこの4月に亡くなりました。父が亡くなったときは私なりの総括が私の頭のなかで出来上がりましたが、母の場合は4ヶ月経った今もケジメができていません。
実家を離れてからは母との触れ合いは殆どなく、それ以前となると記憶もあまり残ってないのです。私自身も老いが進んでしまったということでしょうか。
それにもかかわらず、いや、ケジメが出来ていないからこそ、著者が言う、それまで親が間に存在して見えにくくなっていた“死”と未だ対面出来てない幼い私がいるのを感じています。
肉体が衰える前にケジメが出来るかどうか、私にとって今一番の問題です。
マイブック ― 2009/08/18
待望の私家本第56号が出来上がりました。55号出版以来、実に1年2ヶ月ぶりです。この私家本というのは原稿を自分で編集し、印刷して製本したものです。
原稿は自分で書いたものと寄稿していただいたものとがあります。私の歩いた山の記録や翻訳ものなど、そして親戚の皆さんから寄せられたものが殆どで、唯一、山で出会った方の詩集が入っています。
第1号が2000年の10月ですから、間もなく10年になろうとしています。当初、年10冊刊行を目指したのですが、やはり、原稿が思うように集まらず、遂に今年は8月も半ばを過ぎてやっと1冊というありさまです。
今年あと1冊出版できるかどうか難しいと考えています。それでも、去年50号の大台に乗ったことで、この案件に関してはある程度は満足しております。
また、表紙や装丁につきまして、第49号からイメージチェンジをしています。それまではそれと分かるシリーズものの体裁をとっていましたが、その後は各冊とも単行本として独自性を持たせています。
今後も100冊の刊行を目指すことに変わりはなく、そのためには皆様、一般の方からのご寄稿が頼りです。ご支援をいただければありがたく思います。
今回はこのブログ「伊豆稲取便り」に載せた半年分を収めました。伊豆稲取便り第一号です。もしご希望の方がいましたら、無料で進呈します。コメントください。
なお、当ブログのコメントは管理者の私のチェックを経て、問題なければ公開しております。書き込みいただいて直ぐには公表となりません。
従って、単なる私への連絡でしたら、お許しがない限り公表いたしませんのでご安心ください。
原稿は自分で書いたものと寄稿していただいたものとがあります。私の歩いた山の記録や翻訳ものなど、そして親戚の皆さんから寄せられたものが殆どで、唯一、山で出会った方の詩集が入っています。
第1号が2000年の10月ですから、間もなく10年になろうとしています。当初、年10冊刊行を目指したのですが、やはり、原稿が思うように集まらず、遂に今年は8月も半ばを過ぎてやっと1冊というありさまです。
今年あと1冊出版できるかどうか難しいと考えています。それでも、去年50号の大台に乗ったことで、この案件に関してはある程度は満足しております。
また、表紙や装丁につきまして、第49号からイメージチェンジをしています。それまではそれと分かるシリーズものの体裁をとっていましたが、その後は各冊とも単行本として独自性を持たせています。
今後も100冊の刊行を目指すことに変わりはなく、そのためには皆様、一般の方からのご寄稿が頼りです。ご支援をいただければありがたく思います。
今回はこのブログ「伊豆稲取便り」に載せた半年分を収めました。伊豆稲取便り第一号です。もしご希望の方がいましたら、無料で進呈します。コメントください。
なお、当ブログのコメントは管理者の私のチェックを経て、問題なければ公開しております。書き込みいただいて直ぐには公表となりません。
従って、単なる私への連絡でしたら、お許しがない限り公表いたしませんのでご安心ください。
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