白田城は実在したのか? ― 2011/04/30
白田川にかかる赤川橋の南に、山を越えて稲取へ抜ける道と川沿いに湯ヶ岡方面へ向かう道があり、その分岐点には道祖神が祀られています。
その前にコーヒーやお茶の自販機があって、先週、そこのオバチャンに要害山の所在を訊きました。しかし、要害橋の近辺を要害山と言い、特定の山を指すのではない、と要領を得ない返事でした。
そのオバチャンにきのう戸塚山から下山した折、また会ったので、今度は丸山とコシ山の場所を訊いてみました。彼女は、コシ山は浅間山の下で、その隣(東側)が丸山だと言います。「ここは河内でこの下が堀之内なので、あのお山にお城があったのではないかねえ」
石原驍さんが「伊豆史伝」の中で、白田地域に城があったことを意味する地名が数多く残っているとして、城があったのではないかと仮説を立てて調査を行ったことを述べています。
結局、城実在の立証は出来なかったことで、今後の研究に期待を寄せています。巷のオバチャンが言うのですから、周りの人もそのように思っている人が多いのではないでしょうか。資料などの有力な手がかりが得られるといいですね。
オバチャンはまた、この地にお嫁入りした当時はバスが湯ヶ岡のほうへ通じていたと言います。道祖神も家の前にあったのが、新しく稲取方面への山道が出来たので移されたのだとも。
それからまた、土地の自慢話として作り上げられたのでしょうが、面白い話がありました。昔、コシ山の上のほうに祠があって、こちらは長女の浅間さんと呼んでいた。伊豆にはもう一つ雲見にも浅間神社があって、そちらは次女。そして、富士山は三女の神様で、三女が妬んで万二郎・万三郎の天城山を造って富士山を見えなくした、というわけです。自分たちの浅間神社に寄せる愛着が分かろうと言うものです。
その天城山から降りてきた私には楽しい話に聞こえたのでした。
最近のコメント