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稲取の保育園児たち2012/06/01


私どもには千葉に二人の孫がいて一人は今、年中さんです。幼稚園のブログを毎日閲覧してはカミサンと一緒に楽しんでいます。あッ、だいチャン、写ってる、写ってる!
 


きのうは平波ハイウェーを歩いていたら、クリンセンターから上がってきた保育園児たちに出会いました。先生二人と20人くらいの園児たちが近くの「保育園農園」へ行くところでした。何か苗の植え付けでもするのでしょうか?通過してきた農園ではオジサンが一人農作業をしていましたから、園児たちを迎える準備でもしていたのかも知れません。


今日の散歩は第2平波ハイウェー(中の平~アニマルキングダム)です。帰りにクロカンコースの入り口を過ぎたら、またまた園児たちに出会える幸運が待っていました。きのうの倍の40人くらいに囲まれて感激いたしました。園児たちは手にした野菊やサクランボの小さな実を一斉に差し出して歓迎してくれるのです。


稲取保育園は緑の中にあって、自然との触れ合いには不自由しません。整備されたクロカンコースがすぐ隣なので、先生に引率された園児たちの姿をよく目にします。千葉の孫たちがバスに乗って行かなければならないのを思うと、稲取の子たちは幸せです。

志津摩遊歩道の飛び石2012/06/02


志津摩遊歩道



知人のK氏が、あの志津摩の飛び石歩道はどうなったか確認したいというので、帰りに海岸に降りてみました。すると、これは見事、きれいに修復されていたではありませんか!
 


私たちが現地で初めて確認して以来今日でちょうど二週間目。飛び石が決壊したのはそう遠くない日ですから、ずいぶんと早い対応でした。
 


この遊歩道はホテル宿泊者やイチゴ狩りなどの観光客も大勢往来しています。この先にある波切不動に普段参拝する地元の方も少なくありません。逸早く復旧することが望まれていました。その意味で、当局が迅速、適切に対応したことに敬意を表したいと思います。



コンクリート舗装2012/06/03



稲取の道路は港の周りこそ平坦ですが、全体に山坂が多く、こんなところにまでと思うほど細い道が至る所に走っています。このお蔭で車が入り込めるようになって、特に農作業などが格段に便利になったのは言うまでもありません。
 


ところで、毎日歩いていると坂道が多いため、つい下を向いて歩きがちで、従って目につくのがコンクリートの割れ目です。雑草がその割れ目からたくましく生えてきたりしています。重量のあるものが通過していれば年月の経過で劣化してゆくのは当然ですが、地震など急激な力による損傷も考えられます。
 


先日、K氏との散歩中にコンクリートの強度が話題に上がったことがあります。帰宅して調べようと思っていたのが、すっかり忘れていて、今こんな夜遅くに思い出してネットで調べたレポートを書いている次第です。
 


あるサイトによると以下のとおりです。

1 セメントに水を入れて練ったものをノロといい、強度はないがキメは細かい。

2 セメント1、砂3の割合で混ぜ、水で練ったものをモルタルといい、コンクリートほどの強度はない

3 コンクリートはセメント1、砂3、砂利6の割合で混ぜ、水で練ったもの。強度を増したければ、1,2,4の割合にする。 


コンクリートについて私は漠然と砂利の量を減らせば強度が増すと思っていたのが、実際はそうではなかったのです。ただし、1、3、6――1、2、4に減らせば強度が増すわけで、その意味では間違いではなかったとも言えます。それから、水の割合も大事なようです。
 


コンクリート舗装された道路には一見して砂利の多いものと少ないものとバラツキがあります。そんなとき私のイメージにあったのは、悪質業者は砂利を多く入れて安上がりのコンクリートにしているのではないかということでした。新しく補修工事された部分を見るにつけ、そう思うのは考え過ぎか? あるいは先入観念による誤解かな?


赤松神社の参道2012/06/04


赤松神社


赤松神社は「奥平」の字山田にあって、祭神は事代主命(恵比寿様)で、神津島から渡ってきた海島の守護神でしたが、後に漁業の神さまにもなった―――東伊豆町の「ふるさとのならわし」東伊豆町文化協会編
 


金指徹さんの「稲取風土記」には、往古この場所に三島明神が鎮座していたが、その後、11世紀に現在の西町に遷されたと書かれています。この場所からは土師器などの弥生時代の土器が発見されているようです。
 


その由緒ある場所をその参道のような道から訪ねてみたい、と知人のK氏から提案があり、本日歩いてまいりました。この場所は旧稲取発電所の貯水槽があった近くにあり、だいぶ前に私どもウロツいた場所でもあります。
 


ほどよく、「小峠」の手前でその神社界隈のミカン農家の方にお会いし、“参道”の詳しいお話を伺って予備知識を得ることが出来ました。
 


取り付きは“横ヶ坂”の上、入谷天城道が右にカーブする場所で、前から想像していたとおりでした。道はもちろん整備されていませんが、道形は保っています。急な崖を上がって足を伸ばすと、あっけなく杉の木立の並ぶ参道に出ました。




大昔、この“参道”を通って参拝したか否かは定かではありませんが、少なくとも、今歩いてきた一部は昔の道だったろうと思われます。ここに上がるのにはかなり急な坂道を歩いて来なければなりませんが、その代償として神津島、稲取岬が見渡せる勝れた景観を手に入れることが出来ます。今日は残念ながら、神津島は靄の中に隠れて見えませんでした。


独活峰2012/06/05

独活峰
<中の平のハウスの裏側にある小さな尾根状の右端の森が独活峰>

植物のウドは漢字で「独活」と書くことは先日のハマウドの関係から初めて知りましたが、奥入谷の「独活峰」は「うどみね」と呼ぶのではなく、「どっかつみね」または「どくかつみね」と呼ぶことを土地の古老から教えてもらいました。

そこでネットで更に調べてみると、独活を「うど」と読むのは若葉やつぼみ、芽などの食材を指す場合で、根を薬草として使う場合に「どっかつ」と読むのだそうです。

古老は、ウドが生えていたから「独活峰」と呼ばれていたのではない、と断言しています。これを別の角度から考えてみると、どうやらこのエリヤではウドを食用としていなかったのではないかと思われますが、どうでしょうかね。独活はあくまでも薬草として存在した植物の呼び名だったのではないか?

ウイキペディアによると、「アイヌの人たちは根をすり潰したものを打ち身の湿布薬に用いていた」そうで、「アイヌにとってウドはあくまでも薬草であり、茎や葉が食用になることは知られていなかった」ということです。

大入谷に入植した人がアイヌだとは言いませんが、入谷にアイヌ伝説がかすかに残っていることを思い出させるお話しではあります。

ちなみに、広辞苑では「独活」とはウドの根茎の生薬名で発汗や鎮痛剤に使われる、とあります。

以上を要するに、ウドの当て字が「独活」でも、独活はあくまでも「どっかつ」として自己主張しているところが面白いと思いました。