<><><><><><><><><><><><><><><><><><>

どんど焼きの担い手2014/04/18

フリージア
吾妻権現神社への道は一望閣へ抜ける道を左に分けてから、稲取でも屈指の急坂が続きます。この坂の途中で、先ほど道を譲った軽トラが畑の入り口に留まっていたので、ちょっと立ち寄ってみました。きのうの朝の話しです。

畑の中にはちょうどエンドウ豆を収穫している人がいました。話を聞くと、この方は白田の出身で今は田町の住人だとのこと。彼はつい3年前まで東伊豆町の消防署に勤めていたそうです。兄は百姓が嫌いで、野菜やミカンは彼が収穫して届けていると笑って話してくれました。

白田出身の方だと聞いて、先日アスド会館の裏に回って展望に優れたカヤ原を見つけた話をしたところ、彼はあの辺りは昔から山焼きをしたところだと言います。だとすると、浅間山の尾根の北面は広範囲にわたって山焼きされていたということになります。

浅間山の山焼きは一度民家にまで火が迫ったこともあって、それ以来中止されたと聞いています。その辺の経緯や、山焼きの範囲面積の実態などを詳しく調べてみるのも意味のないことではないかも知れません。それには浅間山からチュウチン山(浅間尾根の末端にある二等三角点の山)にかけて、もっと尾根や谷を歩いてみる必要があります。

それから、白田のどんど焼きの模様を聞くことが出来ました。どんど焼きの担い手は当時小学生以上の子どもで、彼は幼稚園の頃から仲間入りしていたそうです。子供たちは白田川の河岸に茂っている葦を切ってきて集め、隠れ家を作ったりしてどんど焼きの当日まで遊んだと言います。

その他、要害山の辺りに山城があったらしいと彼も言っていましたが、やはり白田の多くの人たちはかつて山城が存在していたことを信じているように思えます。しかし、有力な文献が存在しないということは記録に残らなかったほど、戦の体験がない平穏な時代が続いたということかも知れません。あるいは、火事とともに手がかりが消滅してしまったとも考えられます。

そうした史実はただ歩くだけでは得られるはずがありませんが、でも、何か肉付けが出来ないとも限らないでしょう。とにかく、白田をもっと歩いてみたいと思うや切です。