<><><><><><><><><><><><><><><><><><>

フクラスズメとモンキアゲハ2015/09/01

モンキアゲハ
このアゲハはモンキアゲハ。時に光線の具合で黒い翅が紫色に輝く。渇いた路面で何をしているのだろう。何かの死骸の水分でも吸っているのかな?

 

フクラスズメ
こちらの幼虫は蝶ではなく、蛾の幼虫でした。辛抱強く探して行ったら、フクラスズメの幼虫だと判明。毒々しいけど毒はないそうで、去年はあちこちで大量発生したらしい。稲取でもこの春にはブランコケムシが大量発生しました。

 

きのう、フクラスズメの幼虫は中川の畑の路上にあちこちで這いずっていました。近寄ると、急いで逃げようとします。写真に収めるのに苦労しました。ピンボケですが。


”アマガエル”の海上格納2015/09/02

稲取港
戦時末期にアマガエル(ベニヤ製のモーターボートで爆雷を搭載した神風特攻艇)を格納した塹壕の跡は成就寺の裏手に今も残っているように、向井の山縁りには幾つかあったと聞いています。ところが、それが港のど真ん中にもあったと聞いて驚きました。

Yさんの父君は漁師で特にアワビなどを獲っていましたが、その当時、当局の依頼で港のど真ん中に屋根付きのヤグラを立てる仕事を拝命しました。場所は現在離岸堤の近くにある生簀辺りです。目的は、敵の目に触れないように屋根の下に特攻艇を浮かばせることでした。

港の中は水深がいくら浅いといっても、4~5メートルはあるでしょうから、そこに掘っ建て小屋を建てるのは容易ではなかったと思います。Yさんの父君は親方として多くの作業員を指揮してこの仕事にあたりました。当時彼は縄船の船長としても活躍し、全国からやってきた作業員たちを取りまとめていたのです。

しかし、結局はこの特攻艇は出撃することもなく終戦を迎え、間もなく取り壊しとなりました。そして廃材の払下げを受けた彼はその材木を使って、Yさんのために家を建てたのです。つまり家が一軒建つほどの大量の柱を海中に設置したのでした。

アマガエルの格納は防空壕の中だけでなく、港内の海の上まで利用していたとはまさにオドロキです。

京浜間の輸送2015/09/03

稲取港

Yさんが京浜間の船に乗り始めたのは35歳のとき。50歳まで15年間物資の輸送に携わりました。所属会社は三菱倉庫でした。

彼がこの仕事を始めた年は東京オリンピックが開催された年で、まさに日本経済の高度成長期で、いくらでも仕事がありました。500トンくらいの船がはいると、ハシケが少なくとも50パイは群がったものです。彼の船は60トンあまりで、100トンを超えるハシケもいました。

彼が運んだ物資の中には金塊もあったと聞いて驚きました。この時には警察の厳重な警戒があったのを今でも覚えているという。枠に嵌められて厳重に梱包された大きなガラス板の輸送にも随分と気を遣いました。

コンテナ輸送では、アメリカからの小麦粉がありましたが、中には長期の輸送で横浜に着いたときには腐った異様な臭いのものも含まれていました。この小麦粉の仕事はやはり3年くらいで姿を消したということです。

好景気を反映して物流が活気づいていると、中には不正を働く者も出て来ていました。そんな時に、彼も身に覚えがないのに、税関に呼ばれたことがありました。もちろん、参考人としてです。でも、いい気分ではなかったと述懐していました。ちなみに、この当時の税関長はあの鳩山威一郎さんだったそうです。

稲取では、こうした京浜間の輸送に従事した人は私の知っている人だけでも5指に余ります。稲取で船乗りと聞けば、キンメやイカを釣る漁師とばかり思っていたのが、こうした輸送関係の方や大洋漁業の乗組員、そして遠洋航海で世界中を股にかけた人たちもいたのでした。

八丁池2015/09/04

八丁池

水下の農家Iさん方では昔一時期、八丁池口でイチゴの仮植をしていたことがあったそうです。高度が約1000mの寒冷地での仮植です。県の推奨で行った事業だったとのこと。当時は冷温で育つ品種が主流だったようです。仮植の間に育つべき部分、内実が寒冷地でより良い結果が得られる品種という意味です。

1125mの八丁池では冬季には池全体が凍結します。Iさんは仕事のついでに子どもたちをダットサンの荷台に乗せてみんなでスケートをしたと言います。その当時のスケート靴をまだ保管しておられるそうですから、一度見せていただこうかと思っています。

八丁池には西側に山小屋があったそうですが、今では廃墟となっています。手前の池際の東屋は5段のコンクリート製石段の上にあってベンチとテーブルがあり、今でも辛くも利用できる状態ではあります。

それから、池周辺には昔はクマザサが繁茂していたそうですが、シカの食害の結果でしょうか、今は殆ど見られません。Iさんは近年、八丁池を訪れた時に天城山中のクマザサが激減しているのを目の当たりにして、その変わりように驚いたと、以前話してくれたことがあります。

先月は久しぶりに八丁池を訪れ、道中、水生地歩道と下り八丁池歩道のブナの古木に魅せられました。この秋にはもう一度訪ねてみるつもりです。

山頂のお狐様に会いに2015/09/05

.
今年に入ってからでしたか、我が浅間山の山頂で何やら工事が始まっていました。クレーンが動き回っていた場所が、遠方からでもそれと判る、以前、展望台があった敷地辺りです。その後、町の防災無線だとわかり、結局新しい展望台の望みは絶たれました。

 

そんなわけで、工事完了後も訪れる気が湧いてくることなく今日まできました。それが今朝突然行ってみようという気になったのは、山頂の“お狐さま”のことを思い出したからです。このお狐さまは夏の一時期にしか会えません。初秋の風が吹き出した今でも会えるかな?
浅間山

 

横浜ナンバー、松本ナンバーなどの車が留まっている無線グライダー操縦基地を通り過ぎ、芝刈りされたあとに若干伸びた雑草を踏んで、先ず岩穴の祠に挨拶。短い“参道”は木の枝が両方からかかって狭くなっていました。腰を低くしてこれを突破し赤い鳥居をくぐります。

 

毎月一日には白田の関係者が花を添えに上がってくると聞いていました。しかし、今月は端から雨がつづいたせいか、祠には新しい花も供物も何もありません。ただ一つだけ手向けられていた一袋の塩が、ビニール袋を一部破かれた状態で横たわっているのみでした。

 

少し寂しい思いを胸に山頂に上がると、新しい無線塔が2本、まさしく旧展望台の位置に立っていました。手前のが「エースマスト」。HPで調べると、やはり防災行政無線となっています。そしてもう一つは、「7.5ギガヘルツ帯簡易多重無線装置 JRC(日本無線)」の標札がポールに張付いていました。

 

消防署の屋上に新たに設置されたアンテナがこれを受信するのでしょう。浅間山はこれまでの携帯用の各社のアンテナ中継基地から、町の防災用のアンテナ中継基地に格上げされ、新たな使命を担うことになったということでしょうか。

 

さて、この先は芝刈りの手が入らないとみえて、伸び放題の芝草を分けながら浅間山の山頂に躍り出ました。“お狐さま”は、果たして健在でした。少しやつれた感じに見えるのは、やはり時期を過ぎているからでしょう。光線の角度が斜めに傾きだしたのと、石柱が幾らか変形したのかも。

 

山頂の祠にもお供えは何もありませんでした。この分では正月までお預けかも知れません。お狐さまには、ここは暫く退いていただいて来夏また元気でお会いしましょう。

 

http://taakesan.asablo.jp/blog/2014/08/?offset=15