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お塚公園 ― 2011/12/06
前に“さんごうさん”の場所を訪ね歩いて、それが「釋地大明神」を祀った立派な祠だったことがわかりました。西町の石段をたくさん上がった高台の中腹にあります。
ついこの間までは、みんなでおいしいものを持ち込んでおこもりをしたり太鼓やネリで歩きまわったりして、地域の人たちを結びつける大切な役割を担っていたということです。
そのとき近所のオバアサンから、さんごうさんの上に出て立野へ行けば“おおつか”公園があると教えてもらいました。ところがこの“おおつか”は実は“おつか”即ち、お塚公園だったのです。
さんごうさんを経由して稲取岬の小尾根に上がり、西に向かって下りてゆくと道は直角に北へ向かいます。そして最初の路地を左に入ってゆけば“お塚”公園は間もなくです。
この小公園には滑り台の付いたジャングルジムのようなものがあり、狭いですが子どもが遊べる場所になっています。この辺はちょっとした台地で、昔は見晴らしも良かったのではと思われます。
下から買い物袋を提げて上がってきたオバサンが、一息つきながら教えてくれたのが、この脇に八幡宮の古い墓地があるということでした。金網越しに覗くと、確かに墓石が木立の中に並んで立っているのが見えました。
教えてもらった通り下って右に回り込むと、果たして狭い石段があり、その先に大きな石碑が立っていました。お塚霊所と刻まれた碑文を読むと、都の政争に敗れて落ちのびてきた皇子の亡骸を石棺に納め塚を築いたものとのことです。
以前、稲取にはこうした塚が各所にあると聞きました。水下に“石塚”、入谷に“角力塚(すくもつか)”などの字が残っています。また落ち武者の話しもよく聞きます。
お塚霊所の中には金網戸にカギがかかっていて残念ながら入れませんでしたが、八幡神宮の宮司の個人的な霊所のようですから、遠慮しなければなりません。まあ、落ち武者でなく、都の貴族が落ちのびてきた“事実”がわかっただけで了としませう。
ついこの間までは、みんなでおいしいものを持ち込んでおこもりをしたり太鼓やネリで歩きまわったりして、地域の人たちを結びつける大切な役割を担っていたということです。
そのとき近所のオバアサンから、さんごうさんの上に出て立野へ行けば“おおつか”公園があると教えてもらいました。ところがこの“おおつか”は実は“おつか”即ち、お塚公園だったのです。
さんごうさんを経由して稲取岬の小尾根に上がり、西に向かって下りてゆくと道は直角に北へ向かいます。そして最初の路地を左に入ってゆけば“お塚”公園は間もなくです。
この小公園には滑り台の付いたジャングルジムのようなものがあり、狭いですが子どもが遊べる場所になっています。この辺はちょっとした台地で、昔は見晴らしも良かったのではと思われます。
下から買い物袋を提げて上がってきたオバサンが、一息つきながら教えてくれたのが、この脇に八幡宮の古い墓地があるということでした。金網越しに覗くと、確かに墓石が木立の中に並んで立っているのが見えました。
教えてもらった通り下って右に回り込むと、果たして狭い石段があり、その先に大きな石碑が立っていました。お塚霊所と刻まれた碑文を読むと、都の政争に敗れて落ちのびてきた皇子の亡骸を石棺に納め塚を築いたものとのことです。
以前、稲取にはこうした塚が各所にあると聞きました。水下に“石塚”、入谷に“角力塚(すくもつか)”などの字が残っています。また落ち武者の話しもよく聞きます。
お塚霊所の中には金網戸にカギがかかっていて残念ながら入れませんでしたが、八幡神宮の宮司の個人的な霊所のようですから、遠慮しなければなりません。まあ、落ち武者でなく、都の貴族が落ちのびてきた“事実”がわかっただけで了としませう。
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