二百十日 ― 2013/09/01
「二百十日」は立春から数えて210日目。立春(や立秋)は年によって差がありますが、普通は9月1日です。二百二十日とともに昔から台風が来る頃だから気をつけなければ、とよく言われてきました。現に、今年は台風15号が来てますね。熱低になりましたが。
きのうNHKの番組で「巨大地震 メガクエイク」を見ました。1923年9月1日の関東大震災と、若い学者の震災前後の奮闘の記録です。彼は地震学、特に地震予知の先駆者だったそうです。感動の番組でした。今晩その後編があります。期待しています。
“地震、雷、火事、おやじ”とはよく言ったもので、雷は台風に通じるし、地震による家事の発生もまた恐い。きのうの放送では、直接地震による死者よりも、その後に発生した火事による死者のほうが断然多かったことをショッキングな映像とともに示していました。
今日は防災の日でもあります。朝8時半ごろ、「くんれん、くんれん。地震が発生しました。高台へ避難してください」のアナウンスが聞こえてきました。「浜の湯」前の磯の様子を見ると、白波はそれほど立っていません。ならば、“はなれ”へゴーだ。ウーン、不謹慎かな?
さすがに現地では波が多少高かったこともあって、今朝は釣り人の姿はありません。“小池”で海水浴のまねごとをしたあと、あのイグアナに声をかけることを忘れませんでした。今日は波しぶきを受けて彼も涼しそうでした。
奈良本から龍淵院へ ― 2013/09/02
予想ではきょうの気温はきのうより2~3度低いはずでした。ところが今朝は強い日差し。それでも、バス停でバスを待っている間にかなり強い雨が落ちてきて、これなら涼しくなるだろうと、傘も差さずに今日の予定がうまくゆくことを考えていました。
先ずは片瀬の道行き2件。その後、白田の石碑探し2件。面白い一日になりそうでウキウキしていました。しかし、結局は白田の2件はペンディングとなり、片瀬だけで引き上げたきょうは50点というところでしょうか。点が取れただけでも幸せと思わなければ。
小橋のバス停で下車後、しばらく雲行きを眺めてから「湯ノ沢入口」へと歩き出しました。熱川交番手前の道に入ります。道なりにゆくと、どうやら山に囲まれた盆地の中に入り込んだらしいことが分りました。草刈りのオバサンが木陰で休んでいたので道を訊くと、ずっと先で小学校の正門前に出るとのこと。
実は交番の国道寄りにもう一本道があったのです。この辺の地図を持参しなかったのが拙かった。結局戻って仕切り直し。気を取り直して、車も通れる舗装道路を少しずつ登ってゆきます。その感覚は、あの坂町からの学童通学路に向っていることを示しています。やれやれ。
途中、大政建設の建物を過ぎて道が直角に左に曲がったところで、先方に立派な柵が目に入りました。これが多分別荘の柵だろうと、あの岡野画伯の写真を思い浮かべたのでした。近づくと、かなり広い庭園が東側に展開していました。
中を覗いてみると、庭園全体は手入れが入っていないようです。しかし、妙に落ち着いた佇まいです。ある一定の秩序が保たれている感じがします。詰り、少しも見苦しさを感じさせないのです。「時間」と「空間」(自然)をもともと計算に入れた設計であることを思わせます。
暫く佇んだ後、その先を追ってみました。あの坂町バス停から小学校へ向かう古道の途中にある道標「むらみち」。その石標への方角と一致しています。温泉掘削の櫓のようなものの脇から奥へ進みましたが、直ぐに茫々たる草薮を前にしてギブアップ。引き返しました。
そして間もなく、見覚えがある場所に到着しました。前回、「むらみち」から上がってきた場所でした。前方に天城の山が展開しています。これにて、片瀬の宿題一件は落着しました。さて、もう一つ。それは龍淵院の裏山から古い道を辿って山門に出ること。
さて、その後は学童通学路に合流し、“さかい松”の峠から寺の背後へと向います。小学校への道を分けて尾根道を進み、最初の枝道を左に入って行きます。ここに来て別荘の雰囲気の建物がポツンポツンとあり、ついに前方に片瀬の海が目に入った先に、洗濯物が干してある別荘風の簡便住宅の脇から石段を下りて行きます。
前方は鬱蒼たる竹林でした。倒木ならぬ、倒竹が行く手を阻み、クモの糸が絡みつくのを我慢して強引に下りて行きます。間もなく、踏み跡は左右に分かれました。右の道は谷を右から巻くように水平に続き、左は谷に併行して下っています。ここは迷わず左の道をとりました。
道はやがてある程度広い抉れた道となり、倒竹はあるにしても安心してこれに従える雰囲気です。足下は枯葉や枯れ木のみで、繁茂した下草がないのが助かります。前方にコンクリートブロックが現れ、左にやはりコンクリートの小さな施設を見て、ついに寺の脇に出ました。軒先を回って境内に躍り出たのでした。
本堂には数人が詰めて、これから法事が行われようとしていました。山門に向って頭を垂れると、今回の目標の片瀬分が完結しました。その後、街中に出てから日差しの強さに閉口し、これ以上の無粋な彷徨を断念することにしました。白田の分はまたの機会にしたいと思います。
動画があります
”のるた” ― 2013/09/05
「へえー、“のろた”って聞こえたけどねえ。ほら、“ごろた”石ってよく聞くからさ」
“はなれ”の小池は潮が引くと、まるで外界から隔絶されたかのように池の水は碧く澄み、小魚がのんびりと浮かんでいる様子を観察することが出来ます。
池の周りを固める大岩の上からじっと海中を覗いていると、2~3センチくらいの黒っぽい小魚の他に、青色が鮮やかな、やはり同じくらい小さな魚が後を追って泳いでいました。
ふと、向こう岸に目をやると、褐色の海藻類が水際から岩の上に頭を出し、横一列にまるで草のように繁茂しているのが見えます。その水際に黄色い帯がヒラヒラと動いて茂みの中に消えました。
「ナニ、そいつはウツボさ。稲取では“のるた”って云うんだ」
「黄色に黒っぽい縞があったね、トラ毛のように」
「だからって、トラウツボとは言わないよ。あれは斑模様だね」
「ウツボよりもっと怖そうだ」
「角みたいなのが2本ある。鼻だそうだけどね」
「やっぱり怖そうだ」
「だいたい磯でエサをねらっているから危ないよ。岩影なんかで」
「ガニ引きのオジサンが鼻の頭に血を流していたなあ。“のろた”に喰いつかれたって」
今は未だ残暑がつづき、磯でつい水浴びしたくなりますが、こう嚇かされては、いい加減で、ということになります。今年の“海水浴”(磯での水浴び)はこの辺で仕舞いにしましょう。
白田探訪 ― 2013/09/06
石原驍さんの「伊豆の史伝 下巻」には白田城の探究記が載っていて興味深いものがあります。伊豆半島の各所に存在した山城が東伊豆町にないのはおかしいという疑問に始まって、白田に残る地名や字名、屋号、そして土地の形状などから実在したのではないかと考えたのです。
しかし、白田城に関する資料や文献が殆ど見つからないため。確たる考証が為しえられないまま調査打ち切りとなったようです。白田の各所にある石仏群などの鑑定や解析が専門家によって明らかにされれば、あるいは進展が在ったかもしれないと思うと残念な幕引きでした。
ところで、白田城の存在の真否はともかく、白田の各地にある文化財を一つ一つ自分の目で確かめておくのも意味のないことではなかろうと、今朝は白田のバス停から普応寺に向って歩き始めました。
今朝の目的は大六天と大洞庵の二つを訪ねることです。「腰の神さま」の情報も期待していました。先ず、普応寺までは山側の道を歩きましたが、今回が初めての道で新鮮に感じられました。特に、福寿院へ上がる道を確認出来たのは収穫でした。
実は、普応寺と天神宮を訪ねた後、土地の方に案内していただく幸運に恵まれました。最初は稲取の方が坂道を歩く私に同情して、車に便乗させてくれたのですが、途中、地元の詳しい方が入れ替って現場まで案内してくれたのです。地元の方は湯ヶ丘の区長をしているというYさんでした。
大洞庵は民家の屋号で石仏群がその家の前にありました。その後、石仏群がある場所が近くにあるというので案内していただくと、その昔、専光院と云う寺があった跡地でした。何でも、白田の東泉院に関係した寺であるらしい。
驚いたことに、その向かいの懸崖にあるお堂が、本日の目的の一つである「大六天」だったのです。期せずして二か所とも簡単に見つかりました。今朝の訪問の成果は私なりに纏めることにして、とりあえず、案内の労を煩わせたお二人に感謝申し上げたいと思います。
白田探訪記 その1 ― 2013/09/07
歩いたことがない知らない道をゆくのは新鮮で、ドキドキした感じがたまらないものです。同じ道を往復する気にならないのは、たとえ知った道でも目の前が変わった同じような感覚を求めているからでしょう。
きのうは更に未知の枝道を発見して次回につなげることが出来ました。当分は片瀬・白田がテーマになりそうです。この地区も当然にも、稲取に負けない歴史を背負ってきています。きのう歩いただけでも、賽の神さまが要所、要所で道行く人を迎えてくれていました。
スタートは白田のバス停です。①~⑤の順で歩きました。③の温泉櫓は現役のようで、「伊豆源泉設備良寛の湯」の看板からするとここから温泉を各家、各施設へ配分しているのでしょう。後で、普応寺の手前の民家の脇に温泉櫓と汲み取りの為の機械を見ましたが、こんな風景を見るのも湯の町ならではに思えて、一度、運転しているところを見たいなどと勝手なことを考えたりします。
④から⑤への道は山側の平坦な道を行きます。間もなく山へ入る細い道(Ⓐ点)がありました。そして更に(Ⓒ点)まで来ると、進行方向斜めにやはり山側へ道が付いていました。そこを過ごしたところで農作業のオジサンに声をかけてみました。Ⓒからは福寿観音がある上の道に通じていると言います。でも、Ⓐ
は畑への道で上には通じていないと聞きました。
しかし、地図上では上の道までつながっています。多分、現在は畑の往復に使われるだけで、その先は歩かれていないため、不明瞭な道と化しているのでしょうか。いつか確認したい思います。
そしてこの風情のある落ち着いた山際の道にはやはり、賽の神さまに親しみを覚えます。何と、福々しく堂々とした恰幅でいらっしゃる!その胸に飛び込んでしまいたいと思うのは私だけではないでしょう。
ところで、普応寺の手前、高羽酒店の手前の三叉路ロータリーにも貫禄のある賽の神さまが鎮座([S]の地点)しており、この神さまは山側を向いていました。山側の道をずっと歩いてきた身からすれば、賽の神さまを右に正面から拝見できますが、北側には白田側の手前に2本の道があって、現在はメインになっているそちら側からすれば、神さまの背中をみることになります。
奇妙な感覚に捉われたのを、後に案内してくれた湯ヶ丘の区長さんの話では昔は道路の山側にあって東側を向いていたと言います。それが三叉路のロータリーに移されたとき、山側に向けられるようになったのだそうです。道路事情の変化に賽の神さまも腰を上げざるを得なかったということです。
そんな山際の道を味わいながら、いつの間にか普応寺に着きました。前庭が広く、入り口の左側に10基の石碑が並んで迎えてくれます。いくつかはお地蔵さまや馬頭観音の字が読めました。また、万霊等もありました。
この冬に白田側上流を歩いていたら、浄水場の先の枝沢で鉄砲打ちの仲間がシカの解体をしていたのを見る機会がありました。手際のよい処理にさすがはと感じ入ったものですが、一番左側にある「如是畜生發菩提心」と彫られた石柱はこの人たちの菩提心によるものではないかと想像します。本堂の扉を開けて賽銭を投げ、手を併せます。全体に粛然とした佇まいです。
入口の看板によると、昔は入澤山普門院と称して湯ヶ丘の入の沢(現在の大洞庵)にあったと書かれています。この大洞庵に石塔群があるそうで、次の標的、大洞庵をこれから探すことになります。
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