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北川の狸穴(マミアナ)2023/06/18

伊豆の昔話の中で北川(ほっかわ)の「狸穴のキツネ」という物語が先日の図書館の「音読サークル」で教材にあがり、その狸穴という地名が何処にあるのか話題になりました。実際に読んでみると「南無阿弥陀仏」と書かれた大きな石碑(名号碑)がある場所にキツネが登場します。そこで直観したのが、奈良本峠から東浦路を伊東方面に向かって下りてゆき、北川の集落に入って間もなく旧国道へ道を分けるT字型交差点の少し先に大きな石碑があることを思いだしたのです。

そこで、きょう早速確認すべく奈良本峠を下ってきました。何はともあれ結果はまさにその通りの証言を土地の人から頂くことが出来ました。詳しくは明日お話しようと思います。
直進のみちが東浦路、右に下ると旧国道、そして現国道の135号のガード下をくぐると鹿島神社~北川駅へ行くことが出来ます。

10年前には「南無阿弥陀仏」と読めたと記憶にあります。残念ながら、現在は殆ど読めません。


狸穴2023/06/19

奈良本峠に上がったのは何年振りでしょうか?ここは今や三菱地所が拓いた広大な別荘地。洒落た建物が多く明るい別荘地です。峠と言えばお地蔵さま。苦労して登ってきた旅人はお地蔵さまがおわすこの峠で心身を癒し、向かう方向を確認して下っていったわけです。お地蔵さま3体(5体?)と供養塔(一つは西国33カ所巡礼供養塔)が2塔の石仏群は殆ど10余年前と変わっていませんでした。 

東浦路はこの峠から東北方面へ下ってゆきます。途中、別荘が一軒と「伊豆マウンテンドッグラン」(その後、廃業したようです)の前を通過して、峠から17分後に北川の集落に到着。そしてT字形の角を右に曲がると遠方に見覚えのある大きな石碑を発見。残念ながら文字は野ざらしのため風雨などによる浸蝕激しく、読み取りは出来ませんでした。 

東浦路はこの道をそのまま進みます。ただし、この先は旧家が一軒あるだけで、しかもその先は、10余年前に通ったときは道形が少し残っていただけで森の中を通過し、最終的には旧国道に合流することになります。今回は石碑の手前のT字形を右に下って旧国道を目指します。 

ちょうど近くで伐採した木を細かく処理している年配の方がおられた。細い道に障害となる倒木をそのままにしておけないから処分しているところだとのこと。ボランティア作業です。邪魔をわびて早速、教えを請います。しかし、この地域の方でありながら、地域の名称(あざな)は聞いたことがないとのこと。多分、地域の皆さんもお年寄りが亡くなって知らないのではないかとも云います。そこで、「狸穴」という名前を出してみたのですが、やはり知らないとの返事でした。ただ、この東浦路を進んだ先に広くミカン畑などの土地を所有しているお婆さんに会ったことがある話をしたところ、私が覚えていたその土地の「根岸」という地名は「ねぎば」(「ねぎや」とも聞こえた)のことだろうと言うのです。何故なら、このお婆さんの家はこの下の三島神社の“祢宜(ねぎ)”をしている家柄なのだからと云います。それに近年、このお婆さんは既に亡くなっているというのを聞いて、私も既知のことだったので、同一人物に違いないと納得したのでした。

 ボランティアの方と別れて旧国道に下りました。見覚えのあるかつての農協支所の建物が目の前です。

農協の支所を回り込んだ所に庭先で水洗いをしているオバさんがいました。「狸穴」の場所を何としてでも特定したい。オバサンは「狸穴」という名前を知らなかったのですが、ご亭主に聞いてみると言って奥へ引っ込みました。

時間切れ、この続きはまたあした・・・・。

北川の名号碑辺りは狸穴だ2023/06/20

そして暫くして戻ってきたオバサンはご亭主が、そんなふうな呼び名を聞いたことがある、と言ってますよ、と嬉しい返事をいただきました。ところが、このオバサンは賢明にもそれだけでは納得せず、近所に知り合いがいるから聞いてみると言って、玄関先で携帯を取り出して電話してくれたではありませんか!感激です! でも、結果はノーでした。そこでまた、別の方に電話し始めました。こんどは学校の先生をしていたN女史です。社会科の先生だったそうで、オバサンの勧めで私が電話に出て直接説明したところ、さすがにあの名号碑から上の辺りを「狸穴」と呼んでいた、と証言してくれました。天にも昇る気持ちでした。きょう思い切って出掛けてきた甲斐があったというものです。

その後、オバサンのご亭主も顔を出してくれまして、北川の集落の話に広がっていろいろとご教示頂きました。玄関先にT表具店と書かれた看板が下がっていました。次回訪問した時にはまたお話が聞けそうです。感謝多々!


北川は堀川?2023/06/21

それからT表具店ご夫妻から聞いた庚申塔の話を付け加えねばなりません。あの南無阿弥陀仏のと同じくらい大きな石碑で、この場所から見える上の斜面のこんもりした小さな森の中にあると言います。どんな理由かわかりませんが、この石碑は“上の峠”にあったのを今の場所に移したものだそうです。上の峠とは南無阿弥陀仏の石碑がある場所のことで、奈良本峠を山頂に見立てたその山頂の肩のような意味合いのようです。いわば俗称みたいなものでしょう。それはとにかく覗いてみることにしました。

表具店さんと別れて坂を20m程下った先に上から水が流れて来る水路があり、その隣に石段が上に続いています。これを行くと樹木が被さるようにして石碑が立っていました。石碑の真後ろにあの農協の建物があり、旧国道に石段が通じています。逆に石段を下れば浜へショートカット出来るわけです。この石碑はからくも「庚申塔」と読めましたが、年号は・・・正月しか読めず残念。ただ、台座の横にはっきりと「堀」と「川」が刻印されており、「北川」の地名は実は「堀川」から生まれたことを思わせます。一つの証拠に脇に結構幅のある用水路があり、かなりの勢いで水が流れ落ちていました。水があれば小峠を行き交う人の休息場になるはずです。さすがの東浦路と言えるではありませんか!






河津の天嶺山2023/06/22

一昨日は天嶺山に友人と一緒に登りました。と言いましても、山頂近くの道路に車を留めて歩いたのは30分くらいの超楽々”登山”です。それでも、久しぶりの天嶺山頂でした。

一昨年、別の仲間と川向こうの城山に登った帰りに天嶺山に登った時、入り組んだ別荘地内の道路を走りチェーンストップ前で車を置いて歩いたら、完全な行き止まりに出たことがありました。この時は山を一つ”越えた”こともあり、天嶺山は”これまで”ということにして引き上げたのでした。ですから今回は必ず山頂を踏む決意でした。


幸い友人の運転が効を奏し、うまくお堂のある”峠”に立つことが出来ました。もっとも、車道は倒木などで荒れており、”峠”の手前にUターンできる場所を見つけて車を降りたのでした。しかし、”峠”はゴミ捨て場になっていました。”天の嶺”がこれほどまでに汚されてしまった!南禅寺に移されたこのお堂の本尊さまはさぞ嘆かれていることでしょう。
この”ゴミ捨て場”からは小尾根を外さなければ山頂まで行けますが、赤いリボンテープが誘導してくれます。10分ほど歩いて平らな山頂に到着。相変わらず展望なしの四等三角点山頂でした。でも、静かな山頂で暫くとりとめのない話に興じたのでした。

”ゴミ捨て場”に戻って、お堂に立ち寄ります。ちょっとした石積みの台座に大日如来でしょうか、鎮座していました。何もかもではなく、如来さま一体だけでも残してくれたのは嬉しいですね。

お堂の中は文字通りもぬけの殻でした。