夏祭り ― 2010/07/12
稲取ではいよいよ明日13日から夏祭りが始まります。17日までの5日間に渡って盛大に繰り広げられる夏祭りは、稲取の人たちの心意気を広く内外に知らしめるものになることでしょう。
稲取は現在、田町、西町、東町、入谷・水下の四つの区に分かれていて、お祭りはこの5日間にまとめて行われます。金指徹著「稲取風土記」によると、それまで個々の神社がそれぞれの縁起のもとに別々に行われてきたお祭りが、明治の頃からいろいろな事情で一本化され、昭和になって現在の形に日をそろえたということです。
私は去年、三嶋神社の御くだりから始まって、八幡神社、天王さん(スサノオ神社)、の御くだり、愛宕神社・山神社への巡行、そして最後に天王さんのお山入りをほぼすべて追っかけで見物してまいりました。
その間、三番叟の奉納が二箇所で行われました。また、“ねり(山車)”が太鼓や鉦を鳴らしながら町内を練り歩くのを見ました。特に天王さんのお山入りは豪壮なもので、途中、天王坂の入口で神輿の激しいもみ合いはいつ果てるともなくつづき、若者のエネルギーの爆発が見る人の感情をこんなにも昂ぶらせるものかと感じ入ったものでした。そればかりか、浴衣姿の長老が代わる代わる担ぎ手のなかに加わったのには驚かされたものです。
翻って、わが故郷の夏祭りも懐かしく思い出されます。諏訪神社の境内に各地区の神輿が集まり、露店がずらりと並んで賑わったものでした。なかでも、ケンカ神輿は怪我人が出るほどの荒々しい立ち回りでした。
そのケンカ神輿に使われたのは、“かねみこし”と言われた本物の神輿ではなく、山から切ってきた榊の大木を神輿の代わり(‘笹みこし’と呼んでいました)にして、それを担ぐために十字に組んだ担ぎ棒をまん中に据えたものでした。それでもかなり重たい“みこし”でした。
宵宮になると(本宮だったかな?)、その木の神輿を神前で禊を受けたあとに繰り出して暴れまわるのです。“かねみこし”は、つまり大事に温存したわけです。
各地区には部会所と呼ばれた二階建ての寄り合い所があり、そこの二階には‘わかいし’はもちろん、村(町)の長老が詰めておりました。男は17,8歳になると、若衆(わかいし)に入り、二階に上がる資格が与えられ、おとなの作法を教えられたようです。酒も振舞われて、赤い顔をした‘わかいし’が出入りしたものです。
また、この二階では演芸が催され、外からも眺めることが出来ました。特に‘花傘’を持った浴衣姿の若い女性(私の姉もその一人でした)の踊りはかすかに私の記憶に残っています。一階の広い玄関には大事な神輿が保管され、奥の部屋は子どもたちが出入りして、‘わかいし’から菓子袋などを貰った記憶があります。
そうした夏祭りとのかかわりは、私の場合は中学1,2年の頃で終わりました。したがって、部会所の二階に上がる資格なしに終わったわけです。思えば、私たちの世代ぐらいから、だんだんと地域の拠りどころとしての夏祭りの姿が消え始めたような気がします。
私たちの子どもの頃は担ぐことが出来なかった“かねみこし”を、その後、子どもたちが担ぐようになり、おとなしい、可愛いお祭りに変わってゆきました。
稲取では2,3日前から漁船の大半が陸に上がり、お祭りの準備がなされてきたようです。普段は都会に出ていた若者たちも期間中は古里に戻ってきて、大いに運命共同体としての意識を再確認することになるのでしょう。夏祭りが今なお生きている稲取村に万歳!
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