片瀬の「中の瀬公園」 ― 2020/11/01
白田川左岸を海岸へ向かって旧道を、次いで国道を渡り最初の路地を左折してライオンズマンションの方へと向かいます。すると、以前にも見たことがある公園を見つけました。石柱の門に「中の瀬公園」と刻まれていました。
大きな石碑に供えるかのように立派な花壇がひと際目立ちます。石碑の表面には「完成記念」とあり、裏側には文字が幾つか見えますが、植樹の陰で殆ど読めません。フィールドは、野球は無理でも、バレーボールの一面くらいは取れそうな広さです。でも、ベンチがないので訪れる人がいても、そのまま通り過ぎてしまうことでしょう。
この敷地内には防災センターがありました。2階建ての大きな建物です。センター内には人の気配がなかったようです。消防の第4分団器具置き場も付随しています。何かあったときの拠点なのでしょうか。
この後、「淵の川公園」を訪れた時に、公園のベンチに一人の年配の男性がいたので話を聞いてみると、この辺一帯は昔田圃だったということでした。宅地にするのにかなりの土を盛って全体をかさ上げした格好にしてあると言います。彼はこのエリアに防災センターはふさわしくないと言います。東北大震災クラスの地震と津波が来たら危ないと。そして近くの高層マンションに逃げ込むのが一番だと。
区としては災害時の一時避難場所と考えているようです。園内に遊具などを置かないのは大勢の人を集めることが念頭にあるからなのでしょう。
海防の松 ― 2020/11/02
この公園は下草も奇麗に刈られてすっきりした公園になっています。隅の方に腰かけ出来る細長いコンクリート台があります。ひと休みできます。写真で見るように何かの敷地になっていたような部分があります。そして石段を設けた祭壇?花壇?何があったのでしょうかね。
「ひらなみ」の工事 ― 2020/11/03
キンメの目 ― 2020/11/05
はまべ便り 第4回 「金目鯛の目について」 鈴木文雄 作
***赤い衣に身を包み金色に輝く大きな目***
昭和24年頃、鯖や金目で市場には毎日競り場にいっぱい水揚げがあり、稲取の港は活気で溢れていました。大衆浴場で子供の頃よく漁場の話を聞きました。「うどまわ瀬」や「矢初(やはつ)ざし」という聞きなれない言葉も耳にしました。
「きょうはうどまわ瀬に振ってみたら良かった」
と言うようにその当時の大衆浴場は漁師の情報交換の場所だったと思います。
魚群探知機もない時代、陸の山と山とを合わせ漁場に縄を入れ、海流を見て金目漁をする。小さな丸い石を錘につけ釣り糸を下げていました。その石のことを「あこ石」と言っていました。今は鉄筋棒を使用しています。
金目鯛は深海に棲み水深200M以上の所にいる魚で、先祖は1億年前から地球に生存していたとも言われる原始的な魚だそうです。僅かな太陽光を捉えるため特殊な構造になっています。金色の大きな目が特徴で、目玉を食べると外側は石灰のような味がして、内側は白い小さな透明な玉があり味はありません。つまり、二重構造になっているので暗闇でも見えるのではないかと思います。
海底の小魚は金目が近づいても目があまり見えないので、金目としては餌を獲りやすいと言うことも太古から金目鯛が生存出来た理由のひとつと考えられます。金目鯛は5~6年ぐらいの寿命があるのではないかと思われます。
また、伊豆稲取は日本一の金目の美味しい町と言われています。町民体育祭や運動会で“金目音頭”を皆で踊ったりしています。でも、漁師や海の恵みに感謝している人がいるでしょうか。一度子供たちにもいろいろ教えておくことが大人の務めではないかと自分自身反省しています。漁師に感謝、金目に感謝。
つづく(次回は鰭―ヒレ―のお話)
アラコ道にて ― 2020/11/06
水下のKIさんは92,3才のお婆さん。きのうアラコ道を歩いていたら、彼女らしい小柄な方を前方に認めた。ショイ籠を背負って、杖をつきながらも少しおぼつかない足取りでゆっくりと歩いている。追いついて声をかけながらお顔を見ると、後ろ姿よりもずっと若々しい。紛れもないKIさんだった。先年亡くなった入谷の兄上様の面影とダブル。
数年前に一望閣の下のミカン畑へ通い詰めていた彼女も、歳には勝てず畑をやめてしまった。たまたま毎年ミカンを仕入れに来ていた昔からの知り合いが、後を引き継いでくれるというので任せることにしたのだった。
膝が悪い彼女は重いものを持てない。背中の籠は大きいが、中には何もなかった。ゴミを近くの別の畑に捨ててきたと言う。家の周りが落ち葉などで散らかっていたので掃き集めたゴミだそうだ。今ではこうして外歩きをすることは滅多にないと笑った。
このアラコ道にはいろいろ楽しみがある。毎年入梅の時期に道端にユーカリの花が咲く。初めてその鮮やかな赤色が目に飛び込んできたとき、小さくても人を惹きつけるに十分な貫禄を感じた。“雨に西施がネブの花”を陰とすれば、こちらは陽である。
このユーカリの花が咲いた後に、その隣の畑に白いテッポウユリが登場する。それも数メートルはあろうかという背の高さを、揃って競い合っているように見える。東方の山に向かって妍を競っているのだろうか。
この日はいつになく車が往来していた。通行の邪魔になるくらい私たち二人は長い間おしゃべりを続けた。彼女に会うと、私は決まって質問を投げかける。昔のこの道はどんな形をしていたか?この地点は字崩山の範囲内だろうと思う。彼女が知っている限りでは、既に愛宕山の南面の一部は崩れて現在の形と変わらなかった。ただ、現在私たちが立っている南に開けた場所は落ち込んで、細い道が上下して続いていた。
暗くなるまで畑仕事をして帰ってくるこの道には、あちこちの枝道から人が合流して列をなして歩いていたことがたびたびあったという。そうしたとき、先頭は牛の糞があるから気を付けろ、と皆に声をかけたものだった。街灯も何もない時代だった。
話しはいつしか水下の家々の話に移ると、次から次へと彼女の話は飛んで行く。意外な姻戚関係を聞いて私は驚くだけで、その入り組んだ複雑な話に従いて行けなくなる。
どこそこのマゴ爺さんはKTさんの家の総領の弟で分家して家を構えた。その長男の嫁さんはF家の出で・・・とくると、もうその先を理解する力が急速になくなる。滔々としゃべり続ける彼女は年を重ねて頭脳明晰そのものだ。ちょうど角を曲がってお家に着いたところでお別れした。またお会いしたときに続きを聞かせてもらいましょう。
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