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蟹が森にて2024/03/15

昨日は奈良本図書館の音読の日。例によって小橋まで行かず、片瀬バス停で下車。バス停から片菅神社方面へ少し歩いて右に山道へと坂を上がる。横平尾根を越えて奈良本へ向かう急な九十九折の道だ。30分ほど喘いで尾根に乗ったとき、尾根道の西の方から二人連れが下りて来るのが見えた。尾根道は西方が東方よりやや高い。近づいてきたところでお年寄りのカップルと分かった。 

聞けばやはり散歩だった。蟹が森のお宅から平坦な台地を西に向い、尾根道の末端に出て周回する途中だった。約2キロ、3、000歩が毎日の日課だという。時に調子が良いと、坂町から上がってくる東浦路まで歩き、そのまま小学校を回り込んで蟹が森に帰着するそうだ。ご主人は85才前後、奥様が75才前後とお見受けした。奥様の口から、ご主人が腰痛持ちなので無理しない程度の散歩ということだった。

               蟹が森ポケットパーク

「蟹が森」と聞いて早速聞いてみたら、やはり考えていた通り「蟹が森」は記念碑を中心とした平らな台地一帯を意味し、今でもやや大柄なカニが見つかるという。カエルも大きめだそうだ。この台地は火口湖だった昔がある。かつて2000年ミレニアムの年の6月に三宅島で火山性の地震があった。この年の5月に私たち家族はこの島に旅行しており、後で噴火の事実を知った時は驚いたものだ。そしてその旅行の帰りに、タイロ池という沼地の周りに大きめの黒っぽいカエルがそこら中に見られたのを思い出し、あれは地震の前触れではなかったかと、その後幾度となく家族内でよく話題にのぼったのだった。 

蟹が森は昔火口湖だったことから大雨が降ると水はけが悪く、一帯は水浸しとなり作物などに大きな被害を与えていた。そこで昭和63年に排水溝の工事が行われ、区画整理して現在の姿になった、と概ねこんな内容の文章が記念碑に刻まれている。実はこの工事に関係して、新潟からこの地に移り住んだのがご主人のご尊父だった。当時、クレーン車等の重機会社を始めたご尊父の元で彼はオペレーターとして会社を支えたのだった。会社を2代目として継いだ時には日本経済のバブル期で仕事は幾らでも舞い込んできた。この蟹が森からも見える万二郎、万三郎の天城の山裾に貼り付くように点在する別荘団地などを指さししながら、彼は多忙な毎日を過ごした日々を語ってくれた。今はもう三代目にバトンを渡して余生を楽しんでいる。 

この蟹が森に立つと、ひと際目立つのが民家の屋上に立つ展望台のようなこじんまりした施設だ。この甕が森に来る度にいつも見上げては想像をたくましくしていた。そんな思いを吐露したら、これはこの家の長男が大学院に入った時に増築してもらった個室なのだと彼は言った。この部屋は360度の景観に囲まれている。天体観測でもしていたのだろうか。彼が移住してきた頃はまだ民家はなかったが、工事が竣工後はぽつぽつと建ち始めた。この展望台のある家はそんな頃に出現したのだという。 

彼の隣家の敷地には菜の花がほぼ一面に咲きそろっていた。彼の家の畑も広大な蟹が森の一角にある。しかしその後、土いじりも引退して放っておいたら、近所の人が菜の花の種を蒔いてくれた。この地の人たちの優しい心配りが有難い。彼は余生を暮らすのに最良の環境だと言って憚らなかった。