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浅間山の山頂の祠にお狐さまが!2013/08/27

お狐さま!


久し振りに澄んだ空気。今朝は浅間山に登りました。話題を二つ。


一つは、浅間山の山頂の祠です。実は帰宅して写真を見て驚いたのです。左手前に“お狐さま”が写っていたのです。一瞬、冷水を浴びせられた思いがいたしました。この祠の前には小さな鳥居が立っています。でも、祠を守る“お狐さま”は置かれていないはずなのです。
 


暫く写真を見つめていたら、それが石の割れ目に現れた光の陰であることが理解できました。しかし、何と巧妙な光の陰でしょう! この現象は太陽の位置と日射の角度がこの石の割れ目と一致して成し遂げた仕業です。この時期のある一定の時刻にのみ見られる現象です。これほどまでに大自然は遊び心を持ち合わせていたのでしょうか!それとも、この祠は浅間さんではなく、農業の神、食の神の稲荷神なのでしょうか?

 


もう一つ。

浅間山の中腹の岩穴の祠にはま新しい花束と塩一袋が供えられていましたが、賽銭箱の表面桟の部分が一本こじ開けられていたのには驚きました。この賽銭箱は去年か今年の初め頃に新設されたばかりなのに。


賽銭ドロボウの話はよく聞きます。進行中の“らしい”現場を他で私も見たことがあります。でも、それは人が容易に近づける場所で、浅間山のように下から歩いて登ってくるには、余りにも労力がかかり過ぎる、しかも対価の少ないと思われる場所であることからすると、何故こんなところまで来て、と疑問が沸いてくるのです。
 


お賽銭に依存するような人は生活が苦しいからでしょう。多分そのお金をゲームか、ひと時の慰みごとに使うわけではないと思います。つまり食べるのにも事欠いているに違いないのです。だとしたら、巷のほうが口を糊塗する機会が多いのに、何故、額に汗してまで山に登るのか?その結果、期待に反することだってあるはずなのに。


翻って、衣食に足りている人の仕業と考えることは妥当か?この場合は、賽銭ドロボウが目的で山に登ってきたということは先ず考えられません。詰り、出来心ということになります。しかし、神社に詣でて俄かに賽銭ドロボウするという出来心はあり得るかという問いには、先ず考えにくいと思うのが自然です。何故なら、神社に詣でるつもりだったということは敬虔な気持ちを持って祠の前で頭を垂れたはずで、神を畏れる心を持っていたと考えられるからです。
 


あるいはもっと単純な動機で賽銭ドロボウしたのかも知れません。でも、これ以上の犯人捜しはしたくありません。そこで、提案があります。賽銭箱は中身を簡単に取り出せるものにする、というのはどうでしょう。

 

この浅間山の賽銭箱は今年の正月に新しく立派なものに変わっていました。しかも、台座にしっかりと固定されて簡単には取り外しが出来ないだろうと思われました。ただ、桟を抜かれるという盲点があったということです。

グライダーの基地と天城山

<左から万三郎、馬の背、万二郎  手前は模型飛行機の基地の東屋>
 

ところで、この施主の方はどういう思惑でこのガッシリした賽銭箱を新調したのでしょうか?賽銭を集めて何かの足しにすると考えたのでしょうか?私は単に、新調することによって神社としての権威を高めようとしたのではないか、それまでなかった賽銭箱を新たに置くことで神社としての格好をつけようとした、と考えたいのであります。

 

しかし、台座に固定するのは行き過ぎだった、置くだけで良かった、と思うわけです。持ち去りたい人がいたら、どうぞお持ちください、ということで良いのではありませんか?施主の方は賽銭をあてにするような人ではないはずです。賽銭を持ち去りたいと思う人がいたら、どうかその人に神のご加護をと祈れないはずはないと考えます。

<浅間山の北側に下りると、天城山が屏風のように迫ってきます>