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倶会一処 その32023/08/25

夕月とともに 伊豆の島々
(三)
その後、半月ほどしてから彼の姿が見えなくなって幾日かが経った。インプラント埋め込みで何か問題があったのかと、心配になった私は彼の携帯に電話してみた。すると彼は今病院にいるという。「インプラントのことはどうでもよいことで、実は肺ガンが見つかって沼津のガンセンターに入院している」と聞き、私はあの時のある種の不安が的中したことを悟った。彼はタバコの愛好家だった。ただ、最近の彼の嗜好は普通の紙巻ではなく、今はやりの電子タバコだった。しかし、この電子タバコも肺がんのリスクがゼロという訳ではない。テレビの特集番組でその実態を私は理解していた。それに多分、電子タバコを愛好している誰しもそうなのだが過去には紙巻タバコを吸っていたはずだ。とにかく、面会にゆくからというと、コロナウイルスで今は無理。病院側から面会できないと云われているとの返事。そうか時期が悪かった。さもありなん、退院を待つしかなかった。

それから3週間が経って、彼のベンツが頻繁に出入りしているのを見て退院したんだなと、私は直感した。そこで彼の部屋を訪ねようと準備していたある日、彼と風呂場で出会ったのだった。そしてその場で病状がステージ4であることを彼の口から聞かされた。ステージ4は確率からすればその先に末期ガンを連想させる。実は、彼の病状を聞いてから間もなく、新聞に最近のがん治療の最先端という記事が載っていたのを読み、これは参考になると思って、かいつまんで彼に話した。ガンのゲノム治療による最適な治療方法に道が開けているという情報だった。つまり、肺ガンといってもDNA上では必ずしも同じ種類のものではない。その分析によってこれまで蓄積した膨大なデーターからその種類に適合した治療法を探し出すということ。肺ガンに一般的な抗がん剤を適用するのではなく、個々のDNAデーターの中から変異遺伝子を見つけ、それに標的を絞って抗がん剤を投薬するという極めて合理的な手法である。この手法によって実際に延命出来た人が徐々に増えているらしい。ただし、ゲノム治療のための検査を受けている人がまだまだ多くないという。多くの患者に接してきたある医師が「自分に使える薬があるのを知らないまま亡くなるのを減らしたい」と広くその方面で活動していると紹介されていたが、ガン治療の現場ではいろいろと問題があるようだ。
しかし彼は、「俺は若い。ガンに負けるわけがない。医者を信頼している。すべては医者に任せてある。医者の治療方針に順うだけだ」とニコニコ顔で言うのだった。その顔にはIT業界でもまれてきた聡明さと自信にあふれた表情が現れていた。私は彼のある種の決意ともとれる発言を聞いて返す言葉が無かった。別れ際に、「肺ガンのことは誰にも言わないで欲しい」とクギをさされた。