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夏祭りの準備2023/07/06


ヨカサカ柚久保線のスタートがⒶ、オオブラ峠がⒷ、Ⓒは最終処分場 ⒹはJAミカン
ワイナリ、赤丸190は山神社、赤丸296はふれあいの森、
  
今月はまだ”ひらなみHW”を歩いていないので大長坂から栄昌院経由で山神社に上がりました。すると、山神社の周りに数人の人が集まり、草むしりなどに精を出していました。おや、花の手入れにしては数が多いな、と思いながら、その前を通り過ぎて近くにいたオバちゃんに声をかけたら、「ほら、お祭りの準備なのよ。役員さんが集まってやってるの」とのご託宣。

うっかりしてました。今やもう7月に入ったのでした。間もなく夏祭りが始まるのでした。”ボーっと生きてるんじゃネ~ヨ!”と、誰かさんにドヤサレそうで、今年ももう半年を過ごしてしまったのだと改めて思うのです。

ところで、きょうの午前中は曇り空で、入谷に上がればポツリと少し落ちてくるくらい涼しいウオーキングでした。新しく開通したヨカサカ~柚久保線は峠を二つ越えねばなりません。従来の大洞(オーブラ)峠にもう一つ”峠が出来ました。” ゴミの最終処分場の裏山の部分を崩してクロカンコースの峰を縦断した結果、新たに峠ができたのです。何て名前を付けましょうかね?
オーブラ峠から山神社(鳥居は円内の北側・・・画像を拡大して見て下さい)を望む。
水平線右側に薄っすらと爪木崎。

西山五郎医師と不動明王2023/07/05

           琴海神社の杜

句碑から細い坂道を数歩下って公民館の裏を覗くとお堂がありました。正面奥に小さな仏像が安置されています。大日如来坐像でしょうか。その後、バス通りを進みます。右手にこんもりとした崖上の森がいかにも特徴ある形を見せています。裏側に廻るとベンチが置いてある先に参道がありました。立派な鳥居の前方に石段が高く続いています。「琴海神社」でした。折角ですから参拝してきました。

 


             真乗寺

さあ、お寺さんを探します。以前、見高神社に詣でた時にお寺さんの石垣沿いを歩いた覚えがあります。小川の橋を渡って小路を回り込み、うまく境内に辿りつきました。先客が何やら用を済ませた後、ご住職に面会を申し込み、お堂の中に誘導されてお話をいただく栄誉を得ました。ご住職はカラフルな衣装を身に付け、回向を済ませたばかりと見える正装でした。 

さっそく、見高浜の句碑について伺ったところ、「河津の文化史」を幾冊か持ち出して来て説明してくれます。私が見て来た公民館裏の句碑は3基あって、そのうちの一つが、「八正の道 速曽 月の旅  樵里」のようです。仏教の「八正」とは涅槃に至る八つの実践徳目(正見、正思惟、正語、正定・・・など)だそうです。従って、涅槃への道(解脱)は月への旅のように簡単には得られない遠い遠い遥かなる道程だ、と言うような意味でしょう。先ほど見て来た句碑は2基ですが、この本では3基を確認しています。壊れて撤去した可能性があります。 

河津の文化史の本には河津浜の海苑前にも3基ある由。そういえば、称念寺からトンネル前の駐車場へ出るのに海苑ホテルの前の小道を歩いた時に石碑群を見たことがありました。あそこにも句碑があったのですね。その他、田中や筏場など計7カ所にも句碑があるそうです。ご住職はコピーの労まで取ってくれました。感謝! 

句碑のお話の流れの中で全乗寺が廃寺となった経緯については、うっかりしてご住職にお伺いするのを忘れてしまいました。それから、稲取の郷土の偉人、西山五郎医師のお話がありました。そのなかで西山医師が或る方の命を救ったことで、その知人の彫師の作品である不動明王を贈られ西山家累代の家宝となっていたのを、西山家の子孫が絶えるにあたって稲取の教育委員会にその家宝等の保存を持ち掛けたところ、にべもない返事で、結局、このお寺で保護することになった経緯を話してくれました。稲取の偉人に対して、その稲取の教育委員会の対応が冷たすぎると、ご住職は嘆いておられました。私自身も耳を疑ったほどです。不動明王は本堂の正面に立っていました。それと西山夫妻の写真が額に収められて飾ってありました。かくして、西山五郎医師と河津の真乗寺との関係の一端を知ることが出来、ご住職に感謝の気持ちでいっぱいです。感謝多々!

                   西山五郎村医ご夫妻

江戸時代の句会2023/07/04

いつもの如く急に今井浜を訪ねたくなり、稲取駅9時37分発に乗って現地へ。目的は今井浜病院の外観だけの写真です。あと半月余り待てば今月の診療予約日なのに思い立ったら気が済まない性分で、とにかくゴー!というわけです。ちなみに只今編集中の作業に必要な写真の一部なのです。そして、写真ナンゾハすぐに終わって、さて、そのまま帰るのはもったいない。実は、電車の中で考えたのが峠を越えて歩いて帰ること。そして、この帰りはナント“吉”と出たのであります。 

先ずは伊豆急行線今井浜駅から“東浦路”を行きます。左右に民宿などがある狭い坂道を上がったところで、左側の山際に石碑のようなものが目に留まったのです。確か、あれは“句碑”のはず。早速、広い駐車場から石段を上がりました。この石段はゴー・ストップになっていまして、失礼してここをクリアいたしました。石碑は大小二つあり、大きい方に文字が刻まれていました。でも崩し字や欠損で全く読めません。小さい方の石碑は文字そのものが形跡を無くしていました。

 石碑の隣の坂下が100坪くらいの墓地になっており、墓石が並んでいる傍で草むしりをしていた方がいたので声をかけました。するとわざわざ石碑まで上って来て私の質問に答えてくれました。未だ60才前後の若い男性です。ひとまずこの石碑が句碑であることを確認したあと、この墓地の隣にお堂があり、そこで句会をしていたといいます。その後、このお堂(全乗寺)は廃されて近くのお寺(真乗寺)に吸収された(?)ような話でした。詳しい話は真乗寺のご住職に聞くと良い、と教えてくれました。

幸先良いスタートです。伊豆の賀茂地区は句会が盛んだったことを思いだしたのです。稲取でも長坂の終点、入谷道に交わるところ(いわゆる”スクモヅカ”)、そして志津摩の一角(東浦路・・・今は民家の庭先)の二カ所に確認しています。河津から松崎街道に入った所のお寺か神社かでも、句会を催した額を見たことがあります。 

当時、賀茂地区の句会についてもう少し掘り下げるべきだったかなと今改めて思っています。 つづく


権現さんのこと2023/07/02

        夏エビネだと思うけど(?)

いろは坂を上り切った所には「ふれあいの森」の管理棟がある。下から見上げると部屋の中に明かりが点いている時があって、その前の駐車場に車を留めてここで一日仕事をしている人がいるらしい。最近、このリモートワークする人が姿を消したようで、管理棟の灯りも駐車場に車も見られない日が続いている。政府のコロナウイルス対策が第5種扱いに変わり、通常のウイルス対策と同じ扱いになって、若い人たちも会社に戻ったようだ。 

どこか淋しいような気がしないでもないと思いながらじっと見上げていたら、前方からご婦人が現れた。70才前後の小太りのオバサン。水筒を肩に掛けている。第一駐車場に車を置いて、展望テラスに寄ってきたという。これから駐車場に戻るそうだ。この坂を上って来たのかと言うので、国道から上がってきたと言うと驚いた顔をして、

「この坂の途中に、ウチの畑があるのよ。キュウリを作っていたの。亭主が亡くなる前は権現さんの手前の橋のところに車を置いてね、細い道を歩いてこの道に出た所が畑なの」

実は先月だったか先々月だったか、その細い道を私は歩いたばかりだった。畑中の細々とした道で、倒木が一本横倒しになっていたが、全体に荒れてはいなかった。

権現さんの話が出たので、もう数年前になるかな?軒下に大きな鉢の巣が出来たことがあったと云うと、汗をふきふき、

「あのハチの巣なら、ハチミツが沢山とれたのよ!」

権現さんの縁者の一人だったのだ。亡くなったご亭主は大工さんで、権現さんに少なからず奉仕していたらしい。当時、私が参拝した折、神社の裏手でハチの巣の存在を教えてくれたのは、あるいはこの方だったかも知れない。それから、だいぶ前にこの神社の参道で河津から来たというお婆さんに会ったことがあり、毎年参拝していると言っていた話をすると、 参拝したときに記帳をしたかと聞くので、神社で記帳などしたことがないというと、その記帳を見ればわかるとのこと。そういえば、あの祠にはカギが掛かっていない。記帳があるなら、次の機会には見せてもらうことにしよう。 

この権現さんのご神体は既に八幡様に移しているということだった。稲取ではそんな話を良く聞く。祠も取り壊した例も少なくない。それだけ神社が多かったということだろう。


北川は堀川?2023/06/21

それからT表具店ご夫妻から聞いた庚申塔の話を付け加えねばなりません。あの南無阿弥陀仏のと同じくらい大きな石碑で、この場所から見える上の斜面のこんもりした小さな森の中にあると言います。どんな理由かわかりませんが、この石碑は“上の峠”にあったのを今の場所に移したものだそうです。上の峠とは南無阿弥陀仏の石碑がある場所のことで、奈良本峠を山頂に見立てたその山頂の肩のような意味合いのようです。いわば俗称みたいなものでしょう。それはとにかく覗いてみることにしました。

表具店さんと別れて坂を20m程下った先に上から水が流れて来る水路があり、その隣に石段が上に続いています。これを行くと樹木が被さるようにして石碑が立っていました。石碑の真後ろにあの農協の建物があり、旧国道に石段が通じています。逆に石段を下れば浜へショートカット出来るわけです。この石碑はからくも「庚申塔」と読めましたが、年号は・・・正月しか読めず残念。ただ、台座の横にはっきりと「堀」と「川」が刻印されており、「北川」の地名は実は「堀川」から生まれたことを思わせます。一つの証拠に脇に結構幅のある用水路があり、かなりの勢いで水が流れ落ちていました。水があれば小峠を行き交う人の休息場になるはずです。さすがの東浦路と言えるではありませんか!