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三筋山の”一万階段” ― 2012/08/17
稲取ゴルフ場が出来たのは昭和も40年代に入ってからだそうですが、この工事には地元稲取の労働力が大変な支えになり、また、個々人に経済的な潤いが少なからずもたらされたようです。
ゴルフ場が営業を始めてからも例えば、ご婦人がキャディを務めたりというように雇用の創出に大きなインパクトがあった、うちの女房も少しの間勤めたことがあるんだヨ・・・中川の畑で山下さんは鍬入れの手を休めて語ってくれました。
「そういえば、三筋山に“一万階段”のプロジェクトがあったな」
貧乏村の財政で町独自で開発を手掛ける力は全くないから、スポンサーを募ったら名乗りをあげた企業があり、視察までして町長との談合にまで話は進んだが、当時の町長は会見場に姿を見せなかったそうです。彼は反対だったからという。
三筋山にとてつもなく伸びる長い石段(あるいは木段)を作り、名物にして客寄せしようということでした。必要な施設を用意すれば、スポーツ人が各界から練習や肉体の鍛錬に集まってくるだろうとの目論見です。
それが実現していたら、結果的に正解だったかどうかはわかりません。現在、三筋山はパラグライダーのメッカのひとつにとどまっています。里山の開発としてスポーツ関連の施設なり、そういった名物ができるのも、クロカンコースのツリーハウス建設のレベルで考えると、悪くはないようにも思えてきます。風車建設のような環境に悪影響を及ぼす工事とは違うからです。
山下さんは町おこしと開発はいろいろ問題があって簡単にはゆかないものだ、と言って立ち上がりました。「農家はね、いろいろやることがあって大変なんだよ」
きょうもまた仕事の邪魔をしてしまいました。
ゴルフ場が営業を始めてからも例えば、ご婦人がキャディを務めたりというように雇用の創出に大きなインパクトがあった、うちの女房も少しの間勤めたことがあるんだヨ・・・中川の畑で山下さんは鍬入れの手を休めて語ってくれました。
「そういえば、三筋山に“一万階段”のプロジェクトがあったな」
貧乏村の財政で町独自で開発を手掛ける力は全くないから、スポンサーを募ったら名乗りをあげた企業があり、視察までして町長との談合にまで話は進んだが、当時の町長は会見場に姿を見せなかったそうです。彼は反対だったからという。
三筋山にとてつもなく伸びる長い石段(あるいは木段)を作り、名物にして客寄せしようということでした。必要な施設を用意すれば、スポーツ人が各界から練習や肉体の鍛錬に集まってくるだろうとの目論見です。
それが実現していたら、結果的に正解だったかどうかはわかりません。現在、三筋山はパラグライダーのメッカのひとつにとどまっています。里山の開発としてスポーツ関連の施設なり、そういった名物ができるのも、クロカンコースのツリーハウス建設のレベルで考えると、悪くはないようにも思えてきます。風車建設のような環境に悪影響を及ぼす工事とは違うからです。
山下さんは町おこしと開発はいろいろ問題があって簡単にはゆかないものだ、と言って立ち上がりました。「農家はね、いろいろやることがあって大変なんだよ」
きょうもまた仕事の邪魔をしてしまいました。
炭焼き ― 2012/08/18
木炭はクヌギやナラ、カシなどを焼くと固くて重い良質の炭が出来ます。叩くとカーンカーンと澄んだ音がします。
天城山麓を歩いていると、炭焼きの跡と思われる残骸を見ることがあります。寛文九年(1669年)に吉奈で薪炭林の植樹をした記録が残っている―――石原驍「伊豆の史伝 下巻」―――ことから、当時既に盛んに炭焼きが行われていたことが分かります。
その後、御料林となった天城山以外でも、古くから河津や下田の里山で炭焼きが行われていたことはその地を訪れたときに度々耳にしています。稲取でも入谷の山林が炭焼きの場になっていた話しを今日雨の中聞くことができました。
吉久保の上のミカン畑で雨空を見上げていた農家の方には以前にも石垣のことで、その薀蓄を披露していただいたことがあります。昔、石垣の築造に情熱を傾けたお話でした。今回は里山の炭焼きが話題に上がりました。
先ず、炭焼き人は山林の所有者と契約して一定のエリアを炭焼きの対象にします。このとき大事なのが“めっき(目利き)”です。そのエリアにどれだけの良材があるか、そして製品がどれだけの価格で売れるか、などによって契約金も違ってくるからです。
山に入ると最初に炭焼き窯を作ります。周りに石を積み上げて、その上に水で練った土を盛って天井を作ります。窯が出来上がると、伐採してきた木を等分に切って窯の中に入れ火を入れます。木炭の製法はやはり外部からもたらされたようです。
上の吉久保の方ではミカン栽培が忙しく、炭焼きを手掛けたことはないが、ミカンの枝を伐採したのを集めて炭焼き人に依頼したことはあったと言います。ミカンの木はクヌギやナラほどの固さはないものの、良い炭が出来たということでした。しかも、50俵もとれたそうです。現在80歳半ばになる彼の子どもの頃の話しでした。
天城山麓を歩いていると、炭焼きの跡と思われる残骸を見ることがあります。寛文九年(1669年)に吉奈で薪炭林の植樹をした記録が残っている―――石原驍「伊豆の史伝 下巻」―――ことから、当時既に盛んに炭焼きが行われていたことが分かります。
その後、御料林となった天城山以外でも、古くから河津や下田の里山で炭焼きが行われていたことはその地を訪れたときに度々耳にしています。稲取でも入谷の山林が炭焼きの場になっていた話しを今日雨の中聞くことができました。
吉久保の上のミカン畑で雨空を見上げていた農家の方には以前にも石垣のことで、その薀蓄を披露していただいたことがあります。昔、石垣の築造に情熱を傾けたお話でした。今回は里山の炭焼きが話題に上がりました。
先ず、炭焼き人は山林の所有者と契約して一定のエリアを炭焼きの対象にします。このとき大事なのが“めっき(目利き)”です。そのエリアにどれだけの良材があるか、そして製品がどれだけの価格で売れるか、などによって契約金も違ってくるからです。
山に入ると最初に炭焼き窯を作ります。周りに石を積み上げて、その上に水で練った土を盛って天井を作ります。窯が出来上がると、伐採してきた木を等分に切って窯の中に入れ火を入れます。木炭の製法はやはり外部からもたらされたようです。
上の吉久保の方ではミカン栽培が忙しく、炭焼きを手掛けたことはないが、ミカンの枝を伐採したのを集めて炭焼き人に依頼したことはあったと言います。ミカンの木はクヌギやナラほどの固さはないものの、良い炭が出来たということでした。しかも、50俵もとれたそうです。現在80歳半ばになる彼の子どもの頃の話しでした。
ガニひき ― 2012/08/19
「小磯にゆけばスットコとナンガXXXがとれるよ」
頭に手拭をねじり鉢巻きにして、左手に獲物を入れる小さなバケツ、右手にヒッコクリの竿を持った“ブンクラ”さんがバランスよく小岩の上に立って声だかに言いました。
そこは“はなれ”の基部に近く、大岩を越してきた所です。確か80に近い年齢だったと思います。両手がふさがっているのに、大岩、小岩を良くぞ転々としてきたものです。
スットコとはシッタカのことで、ナンガXXXはクボ貝のような巻貝を言うそうで、途中まで名前を憶えていたのに、“りゅうごんさん”の手前の磯で例によって汐浴みしている間にXXXの分を忘れてしまいました。
「スットコは尻の部分がとがってるけど、ナンガXXXは丸いからすぐわかる」との仰せですが、現物を見なければ想像もできません。先ほど“はなれ”の先端で二人の釣り人のバケツを覗いたら、巻貝のようなものがいくつかありましたので、それがスットコかナンガかどちらかなのかもしれません。
ブンクラさんは今日は“ガニひき”です。竿の先に立派な仕掛けがありました。
「エサを巻きつけただけじゃあ、おめえ、うまく取られちまったら、またエサを取りに行って戻ってくるのはたいへんだろ」
そこで、エサを竿に巻きつけるだけにしておかないで、穴がたくさん開いた薄い入れ物、ちょうどヤブ蚊を防ぐのに移動用に腰に下げたりする蚊取り線香の入れ物のようなものを100円ショップで買ってきて、ちょっとだけ加工して取り付けたんだそうです。
さあ、これでうまくゆきますかどうか?私の想像ではカニがエサにかぶりついたところでヒッコクルんじゃないですかね。匂いをかぎつけて近寄ってきただけでヒッコクレますかね?
ガニひきの達人のようですから、今回の道具の“改良”も目算があってのことでしょう。またお会いして結果を聞くのが楽しみになりました。それにしても、竿の先に蝶のように伸びるテグスの輪が何と立派に見えたことか!
頭に手拭をねじり鉢巻きにして、左手に獲物を入れる小さなバケツ、右手にヒッコクリの竿を持った“ブンクラ”さんがバランスよく小岩の上に立って声だかに言いました。
そこは“はなれ”の基部に近く、大岩を越してきた所です。確か80に近い年齢だったと思います。両手がふさがっているのに、大岩、小岩を良くぞ転々としてきたものです。
スットコとはシッタカのことで、ナンガXXXはクボ貝のような巻貝を言うそうで、途中まで名前を憶えていたのに、“りゅうごんさん”の手前の磯で例によって汐浴みしている間にXXXの分を忘れてしまいました。
「スットコは尻の部分がとがってるけど、ナンガXXXは丸いからすぐわかる」との仰せですが、現物を見なければ想像もできません。先ほど“はなれ”の先端で二人の釣り人のバケツを覗いたら、巻貝のようなものがいくつかありましたので、それがスットコかナンガかどちらかなのかもしれません。
ブンクラさんは今日は“ガニひき”です。竿の先に立派な仕掛けがありました。
「エサを巻きつけただけじゃあ、おめえ、うまく取られちまったら、またエサを取りに行って戻ってくるのはたいへんだろ」
そこで、エサを竿に巻きつけるだけにしておかないで、穴がたくさん開いた薄い入れ物、ちょうどヤブ蚊を防ぐのに移動用に腰に下げたりする蚊取り線香の入れ物のようなものを100円ショップで買ってきて、ちょっとだけ加工して取り付けたんだそうです。
さあ、これでうまくゆきますかどうか?私の想像ではカニがエサにかぶりついたところでヒッコクルんじゃないですかね。匂いをかぎつけて近寄ってきただけでヒッコクレますかね?
ガニひきの達人のようですから、今回の道具の“改良”も目算があってのことでしょう。またお会いして結果を聞くのが楽しみになりました。それにしても、竿の先に蝶のように伸びるテグスの輪が何と立派に見えたことか!
キボシカミキリ ― 2012/08/21
久し振りに大きな昆虫のお出ましです。今朝廊下をウロウロしているカミキリムシがいました。胴体だけでも4センチぐらいの長さです。去年認めたカミキリムシより小さ目ですが、背中の紋章がなかなかにスマートでいかしています。
ネットで調べた結果、多分、キボシカミキリだと思われます。それから昨年見つけたカミキリはシロスジカミキリではなく、ゴマダラカミキリの間違いだったようです。でも、あんなに大きかったのは見たことありません。いずれにしても、三者ともミカンの木を食害する点では共通しているようです。
常夜燈の明かりに誘われて一晩中、ウロウロしていたのでしょうか?今朝は追い立てられても、飛び去る元気はなかったようですが。
ネットで調べた結果、多分、キボシカミキリだと思われます。それから昨年見つけたカミキリはシロスジカミキリではなく、ゴマダラカミキリの間違いだったようです。でも、あんなに大きかったのは見たことありません。いずれにしても、三者ともミカンの木を食害する点では共通しているようです。
常夜燈の明かりに誘われて一晩中、ウロウロしていたのでしょうか?今朝は追い立てられても、飛び去る元気はなかったようですが。
スイカ泥棒 ― 2012/08/22
入谷道の双葉苑入口から下平塚へと降りて行くと、畳6畳ほどの囲いの中に土を盛ったばかりと思われるミカン畑の一画がありました。その前の木陰で休んでおられた農家の方に声をかけると、何とI さんでした。彼は80歳を優に超す御仁ですが、相変わらずお元気です。
その囲いは堆肥で普通ならカヤや枯草、枯葉などを敷いて作るのだが、今回は出来上がった堆肥を農協から購入してここに貯蔵しておくのだそうです。ミカン畑の土壌を改良するためでしょうか。
ミカンは摘果し過ぎると残ったミカンが大きくなり過ぎ、また、少なすぎると翌年の出来が悪くなるとのこと。元来、ミカンもいいものを作るとなると、キヌサヤなどと同じように連作が出来にくいものなのだそうです。
I さん方では井の際へ向かう道を隔てたこの下にもミカン畑があり、そこに幾つかスイカを育てたところ、いずれも20センチほどの大きさになり、そろそろ収穫と思っていた矢先、先日それがすべて姿を消してしまったそうです。
そこには円形の浅い窪みができて、何ものかがノタウチ回った跡があったそうです。ヌタ場ですね。私も山に入ると時々そういう場所に出あうことがあって、その存在を知っていました。そんな場所ではどこか獣の匂いがするものです。
I さんはイノシシの仕業だと言います。この辺一帯には多分2匹のイノシシがいて、井の際の辺りまでがテリトリーになっているらしい。“シシ千里を走る”と昔から言われているように、そこらじゅうを縦横に走るから手がつけられないと彼は言います。
苦労して栽培したものを、収穫の頃になって横取りされた無念はさこそと思われますが、それでも、彼はいつもの柔和な顔を崩すことなく、淡々と話してくれたのでした。
その囲いは堆肥で普通ならカヤや枯草、枯葉などを敷いて作るのだが、今回は出来上がった堆肥を農協から購入してここに貯蔵しておくのだそうです。ミカン畑の土壌を改良するためでしょうか。
ミカンは摘果し過ぎると残ったミカンが大きくなり過ぎ、また、少なすぎると翌年の出来が悪くなるとのこと。元来、ミカンもいいものを作るとなると、キヌサヤなどと同じように連作が出来にくいものなのだそうです。
I さん方では井の際へ向かう道を隔てたこの下にもミカン畑があり、そこに幾つかスイカを育てたところ、いずれも20センチほどの大きさになり、そろそろ収穫と思っていた矢先、先日それがすべて姿を消してしまったそうです。
そこには円形の浅い窪みができて、何ものかがノタウチ回った跡があったそうです。ヌタ場ですね。私も山に入ると時々そういう場所に出あうことがあって、その存在を知っていました。そんな場所ではどこか獣の匂いがするものです。
I さんはイノシシの仕業だと言います。この辺一帯には多分2匹のイノシシがいて、井の際の辺りまでがテリトリーになっているらしい。“シシ千里を走る”と昔から言われているように、そこらじゅうを縦横に走るから手がつけられないと彼は言います。
苦労して栽培したものを、収穫の頃になって横取りされた無念はさこそと思われますが、それでも、彼はいつもの柔和な顔を崩すことなく、淡々と話してくれたのでした。
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