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「川釣り」2012/08/23

国道135にかかる虹の橋
<8月1日撮影 国道135にかかる歓迎アーチ>

井伏鱒二「川釣り」岩波文庫

かつて読んだ「山椒魚」をもう一度読んでみたくなり、かと言って未整理のままの我が書庫から簡単に探し出せるわけはなく、それではと山田書店さんに頼んだときに同時に購入したのが「川釣り」でした。

作者は本書について前書きで次のように言っています。「・・・釣技に関することは何もいってない。たいていは釣りに行きたくっても行けないようなとき、自分の釣り場を思い出しながら書いた文章である」

読者はまさにそのとおりに読み進め、肩肘張らずに気楽に彼のユーモアを楽しめばよいのです。しかし、どうしてどうしてその釣りに関する薀蓄は相当のもので、それにのめり込んでいる様子は山歩きの好きな私どもにも共感できる事柄が多分に盛り込まれています。

例えば、「・・・その頃は釣りをしている自分はこんなことをしてはいられないという気持ちになった。それは聊か物悲しい気持ちであった」と述懐しているところなど、我が山歩き人生で幾度となく抱いた感懐でした。これは多分、彼が作家として世に出る前のことだろうと思います。

最初の短編「釣魚記」には河津川で釣りをした話が出てきます。今でも鮎が解禁になると、大勢の釣り人の姿を見かけます。ここでは鮎釣りの第一人者と言われる“カワセミのおじさん”が登場します。それから、谷津の“南豆荘”に泊まったあるとき、南伊豆を襲った豪雨で水害に遭った話しも出てきます。

このときの登場人物たちの様子が実況中継のようにリアルに表現され、またそれが緊張感のなかでどこか滑稽なところがあって思わず笑ってしまいます。登場する“カワセミのおじさん”や“南豆荘”は今、釣人の間でどう語り継がれているか興味があります。今度河津を訪ねたら釣り人に聞いてみましょう。

「ワサビの盗人」の項では、天城山麓にある上大見村の地蔵堂のワサビが絶品として紹介されていますが、渓流釣りで出くわしたワサビ泥棒の捕物の顛末が面白おかしく描かれています。

しかし、本書の面白さは「白毛」という短編が際立っています。あるとき、ある渓谷で二人の釣り青年に出会います。その二人はこの渓流が初めてということで作者は質問攻めにあいます。こうしたときは山歩きについても同じで、得意になって自分の経験やら知識をしゃべりたくなるものです。そしてそれがどうしても自慢話になってしまうものです。

話しは一人がテグスを忘れてきたことに気付いてから妙な展開になります。作者はここでよせばいいのに、子どものころに白い馬の尻尾をテグス代わりに使ったことを滔々としゃべって聞かせます。そこで、それならお前の白髪を抜いて使いたいという理不尽な話になってしまいます。

作者は実際に羽交い絞めにされて白髪を35本も抜かれてしまうが、その間の経緯や成り行きがまるで落語を聞いているようにテンポよく展開されて圧巻です。その上、そのときの話をある老釣り師に打ち明けたくだりでは、白毛と釣り針の滑稽な話しとともに、伊東から河津浜までバスに乗り、途中、稲取で乗換えしたことが書かれています。

この本は1952年に刊行されており、伊豆急電車が走る10年も前のお話でした。