<><><><><><><><><><><><><><><><><><>

五十尻、百尻2015/08/31

入谷の古老からお話を聞くのは随分久しぶり。いつものように畑で元気に作業しておられました。大正12年生れですから、御年92歳。かくしゃくとして頭脳明晰、恐るべき記憶力。理路整然としたお話しで、聞く人を飽きさせることがありません。

今朝も広範囲なお話があったのですが、ここでは水車関係のことをメモしておきたいと思います。用水路については、堰の沢の本流で堤の水車を回し、水下公民館の下で水下口へ流れ落ちる用水路から分かれて、誇宇耶の水車、堂ノ前の裏の水車(外岡)、二つ掘の前の水車(となり)、前の家の裏の水車(橋場)、そして小学校の上の外岡さんの水車をまわした水路があったということ。

堤の水車を回した水は池上さんの所で、「したんじょう」~銀水荘に落ちる水系と、西にマリンスポーツセンター脇に落ちる水系に分かれるということ。

外岡さんらの水車を回した水路は更に、東は「ヤシ」の脇から上清水~洞川(三島神社周辺)へ、西は交番の脇を通って「いなとり荘」へと枝分かれしていた。そして、これら水路の大本である志津摩川の水門が「五十尻川」の水門とされていた理由が、実は何と、いなとり荘周辺の字名にあると判ったのです。

古老が覚えていたのは、いなとり荘周辺の字名が「五十尻」であり、百尻」であるということでした。ただ、どちらがどこかという具体的なエリアははっきりしないということでした。しかし、いずれにしても、五十尻は入谷の字名ではなく、浜地区の字名だったのでした。

そういえば、マリンスポーツセンターの裏山辺りは「小山尻」でしたね。「土尻」は入谷ですが、五十尻、百尻、小山尻は磯浜だったのでした。読み方も「五十尻川」は「ごじゅうじり」川で、「いそじり」川ではなかったのです。


もうひとつ、水車小屋について。「よかさか」の下を流れる大川の傍らに一つ、「うどんげ」の周辺に二つの“バッタリ式”の小屋があったということです。“バッタリ式”とは水車を回すのではなく、ギッタンバッコンの要領で水受けが上下するのに合わせて、杵が上下して精米する方式のことです。正しくは「添水唐臼」(そうずからうす)と言うそうです。

それから、土尻にあった東の隠居さんの水車は石臼が4個もあったということです。水車の軸の延長線上に付けた4か所の桁が軸の回転によって4個の杵を上下させていたということですから、まさにその光景は壮観だったことでしょう。

なお、1個の臼の精米能力は24時間で約2斗だそうで、4個の臼だと8斗即ち2俵(120キロ)ということになります。ですから1個の臼の小屋では多くて4~5軒くらいの農家の“持合い”ということでしょうか。ですから、水下に6個もの水車小屋があったというのもうなずける話です。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
山に登るのは
そこに ? があるから (答えは 山 )

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://taakesan.asablo.jp/blog/2015/08/31/7765120/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。