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堀ノ内2013/10/29

<赤川橋の手前から>

白田の普応寺の前を通って迂回路に出た後、湯ヶ岡~白田浄水場へと向かうには白田川に沿った道か、賽の神さま迄上がって湯ヶ岡公民館~湯ヶ岡の郷の前を通る道の二本があります。そして、両方の道はいずれは合流して浄水場方面への道になります。
 


発電所や浄水場方面へは、これまでは公民館経由の道をとっていたので、きのうは初めて白田川沿いの道を歩いてみました。この道は丁度良い角度で浅間山の尾根を仰ぎ見ることが出来ます。浅間山の頂上の芝付きから左に風車の回転している羽が少しだけ覗いて見えます。
 


しばらく行ったところで、ミカンの木に消毒薬をかけている農家のオバサンがいたので、ちょっとお邪魔しました。「コシ山」と「丸山」がどれか訊きます。すると、オバサンは明確に指さして教えてくれました。さすが湯ヶ岡の出身です。

 


この辺は前述の二つの道に囲まれた字「堀ノ内」です。白田には丸山とか、コシ山、トノ畑、山の根、大倉、矢崎、矢城など城に関係する言葉がたくさんあります。堀ノ内もその一つです。ウイキペディアによれば、「堀ノ内」は中世の館を意味し、館の周囲に掘や盛り土が垣根になっていたために呼ばれた地名だと解説しています。
 


そんなことから、昔からこの地に城があったのではないかと多くの人が夢想したのは無理もないことです。私もその一人で、わけもなく白田を歩き回るのはそんな夢に浸るのも悪くはないと考えているからです。
 


さて、丸山とコシ山を指さしながら、オバサンは子どもの頃、子どもたちだけでワラビ採りに丸山を往復したと言います。当時は山道が続いていたのです。ワラビ採りならば、山焼きをしていた頃のことでしょうから、山のかなり上のほうまで登ったと想像できます。
 


先日探し当てた「腰の神さま」の場所から上が丸山で、「入の沢」を挟んで西側がコシ山です。堀ノ内からこの山を見上げて、山城を頭の中に描いてみました。すると、中世の時代に侍たちの集落がこの堀ノ内にあった気がしてきました。
 


湯ヶ岡で合流してから、いつもの道を迂回路に戻る道すがら、以前、湯ヶ岡までバスが通っていたことを思い出しました。湯ヶ岡より西は寂しくなりますが、湯ヶ岡から堀ノ内にかけてかなり大きな集落になっていることが分ります。きっと、この地方は中世の時代から既に魅力のある場所だったに違いないと思えてきたのでした。