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弘法地堂と清水2013/10/22


東泉院の脇の道を上ってT字路に出たところに「弘法地堂」があります。看板には、山本興助が大正元年に清水の地に建て、その後、この地に移されたと書かれています。
 


先月、地元の人から清水の地には未だ数体の石像が残っている、と聞きました。そこで、きのう片瀬の帰りに探してみることにしました。
 


白田の交差点から国道を約1.5キロ行き、旧国道に入ります。間もなく右手の石垣から勢いよく水が流れ落ちている場所に来ました。この水は国道の地下を走り、山腹から流れ落ちてくる水です。多分、これが“清水”という字名の由縁でしょう。

 


更に少し先の左手に貯水施設にも似た「磯辺ポンプ場」がありました。昭和54年4月竣工と銅板にありますから、あの大地震後、4か月余りで完成させています。この先、わずかな所にあるトモロトンネルが埋まってしまったほどの大地震です。対応が早かったことに敬意を表したいと思います。
 


そこから更に5,6m先の右側にも清水が流れ落ちている場所があり、そのちょっと先にお目当ての石像物がありました。石段を数段上って、コンクリートブロックを並べた立派な祭壇に4体が並んでいました。
 


明治?年の刻印がある馬頭観音が一体と、文化?年七月の刻印の大日如来、そして、お地蔵さま。もう一体は墓碑のようです、お地蔵さまは首がなかったと白田の方が言ってましたが、首をセメントで繋げてありました。
 


昔は全部で8体あったそうですから、大師さまが先ほどの弘法地堂に納まったとして、あとの3体はどこへ行ってしまったのでしょうか?片瀬の水神さんと同じように行方不明です。

 


また、白田の方の話ではここは昔、屠殺場だったとのことです。民間信仰として、牛馬に対する慰霊の意味で馬頭観音が置かれたと考えてもよいですね。そして、お地蔵さまとともに街道上にあった、つまり、東浦路はここを通って海岸へ向っていたと考えられます。
 


ところで、先の弘法地堂の看板の意味は、大正元年にそれまで存在した8体の石像を安置するためのお堂を建てたということなのでしょう。ただ、大師さまが昔からの8体の一つであったかどうかは不明です。大正元年に新たに奉納されたのかも知れません.


山歩きをする人でしたら、“清水”と言えば、「弘法の清水」という水場が全国どこにでもあることを誰でも知っています。大師さまが独鈷を突いたら、そこから水や湯が沸きだしたと言います。それほど待ちに待った貴重な水場だったということです。


いずれにしても、旅人の喉の渇きを癒したと思われる、この清水の地が大きな意味を持っていたことは理解できます。先ほど、この清水に手を入れたところ、適度の冷たさで、また流れ落ちた部分の溜りはきれいに澄んでいました。

この後、旧灯台に上がって帰りましたが、新トモロトンネル手前では大きなクレーンが仕事をしていました。工事看板によると、工事発注者は伊豆急行で伊豆急線側の法面の補強工事でした。