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定年後の農業 ― 2014/09/22
林の沢のこの畑へは一度上がったことがあった。そこは知り合いのミカン畑を通り越して、更に上がった所から道を外れて奥へ入り込まなければならない。今朝はその道を外れた所が格段に景色の良い所なのを思い出し、足を向けてみる気になった。
今さっき知り合いの“弥助どん”(仮名)に久しぶりに会って、彼のミカン畑の一角にある柿の木がたくさんの実をつけ、それがだいぶ色づいているのを見て、一緒に収穫する約束を取り付けてきたばかりだった。あとひと月もすればもっと大きくなると言う。
その彼のミカン畑が見下ろせる場所に立つと、急に明るい場所に出たせいで直射日光がことのほか眩しい。ここからだと、伊豆東部総合病院がかなり高い所にあると分って驚いた。西に目を向ければ、稲取岬の灯台が見える。岬の北斜面は住宅がぎっしりと軒を連ね、八幡様の森に迫っているように見えた。
暫く景観を楽しんだ後、更に急な農道を上がる。白い車体の軽トラが林の陰から見えてきたと同時に目の前が開け、緩い斜面の畑が姿を現した。キヌサヤエンドウの緑のツルが丈を伸ばしている。その列の中に人影が動いたのを認めた。
余分な花や枝を摘み取っていた手を休めて、向き直った顔には不信な表情が浮かんでいたが、突然闖入してきた失礼を詫び、早速、この場所でキヌサヤの成育状況に話を向けると、表情を和らげて、当方の質問にいろいろと答えてくれた。
畑の中ほどにあるサトイモの大きな葉っぱを指さして、あれはイノシシにやられた痕だという。そう言えば、畑の周囲に垣根は何もない。今になってようやく電柵を設けることにしたのだそうだ。私がその関係の人ではないかと勘違いしたようである。
彼は60歳前後の方で、ずっと勤め人で通してきた人だった。農家の仕事に熱を入れ出したのは最近のことである。しかし、ご両親は農業一筋を通して子どもたちを育ててきた。この今の畑は200アールの広さで、この2倍の畑地が隣り合っていたという。
上の方には確かに石垣が覗いて見える。でも、立木が林立して畑の様相は見えない。この直ぐ脇も草木が繁茂して、畑が続いていたとはとても思えない。ご両親が引退して暫く時が経ち、彼は勤めのかたわら細々と農作業を続け、辛くもこの一反の広さが草木に埋没するのを免れたという。
彼が子どもの頃は、しかし、農作業が嫌でたまらなかったらしい。当時、ガスもコンロもない時代である。飯炊きや風呂を沸かすにも燃し木が必要だった。それを彼ら子どもたちが集めて来るのが日課だったそうだ。ご両親が畑を広げたのも、そんな頃だった。
この辺一帯は当初、山林だったのが、所有者の或る篤農家がそっくり町に返納した経緯がある。そして、町は開拓を条件に一般に分譲したのだという。当時、ショベルカーもトラクターも普及していない時代である。この山林を取得した人たちの苦労は並大抵ではなかったようだ。
サラリーマン生活を終え、あらためて農業に向き合うことになって、彼は今、幸せを感じているという。種を蒔き、芽が出、そして成長していくのを見るのが楽しみだという。その間にそれぞれの作業がついてまわる。それを一つ一つこなしてゆけるのが幸せなのだと。彼には先生がいるそうだ。私も知っている古老の一人である。彼は、その古老が作業の手順をいつも頭の中に入れているのを驚異に思ったという。
確かに農業のエキスパートたちには知恵がある。それは多分、農業における諸々の知識と経験によるものなのだろう。そんな人を師に仰げる彼は幸せ者だ。初めて手掛けたというキヌサヤの今後の成長ぶりを見に、いつかまたここを訪ねてみようと思う。
今さっき知り合いの“弥助どん”(仮名)に久しぶりに会って、彼のミカン畑の一角にある柿の木がたくさんの実をつけ、それがだいぶ色づいているのを見て、一緒に収穫する約束を取り付けてきたばかりだった。あとひと月もすればもっと大きくなると言う。
その彼のミカン畑が見下ろせる場所に立つと、急に明るい場所に出たせいで直射日光がことのほか眩しい。ここからだと、伊豆東部総合病院がかなり高い所にあると分って驚いた。西に目を向ければ、稲取岬の灯台が見える。岬の北斜面は住宅がぎっしりと軒を連ね、八幡様の森に迫っているように見えた。
暫く景観を楽しんだ後、更に急な農道を上がる。白い車体の軽トラが林の陰から見えてきたと同時に目の前が開け、緩い斜面の畑が姿を現した。キヌサヤエンドウの緑のツルが丈を伸ばしている。その列の中に人影が動いたのを認めた。
余分な花や枝を摘み取っていた手を休めて、向き直った顔には不信な表情が浮かんでいたが、突然闖入してきた失礼を詫び、早速、この場所でキヌサヤの成育状況に話を向けると、表情を和らげて、当方の質問にいろいろと答えてくれた。
畑の中ほどにあるサトイモの大きな葉っぱを指さして、あれはイノシシにやられた痕だという。そう言えば、畑の周囲に垣根は何もない。今になってようやく電柵を設けることにしたのだそうだ。私がその関係の人ではないかと勘違いしたようである。
彼は60歳前後の方で、ずっと勤め人で通してきた人だった。農家の仕事に熱を入れ出したのは最近のことである。しかし、ご両親は農業一筋を通して子どもたちを育ててきた。この今の畑は200アールの広さで、この2倍の畑地が隣り合っていたという。
上の方には確かに石垣が覗いて見える。でも、立木が林立して畑の様相は見えない。この直ぐ脇も草木が繁茂して、畑が続いていたとはとても思えない。ご両親が引退して暫く時が経ち、彼は勤めのかたわら細々と農作業を続け、辛くもこの一反の広さが草木に埋没するのを免れたという。
彼が子どもの頃は、しかし、農作業が嫌でたまらなかったらしい。当時、ガスもコンロもない時代である。飯炊きや風呂を沸かすにも燃し木が必要だった。それを彼ら子どもたちが集めて来るのが日課だったそうだ。ご両親が畑を広げたのも、そんな頃だった。
この辺一帯は当初、山林だったのが、所有者の或る篤農家がそっくり町に返納した経緯がある。そして、町は開拓を条件に一般に分譲したのだという。当時、ショベルカーもトラクターも普及していない時代である。この山林を取得した人たちの苦労は並大抵ではなかったようだ。
サラリーマン生活を終え、あらためて農業に向き合うことになって、彼は今、幸せを感じているという。種を蒔き、芽が出、そして成長していくのを見るのが楽しみだという。その間にそれぞれの作業がついてまわる。それを一つ一つこなしてゆけるのが幸せなのだと。彼には先生がいるそうだ。私も知っている古老の一人である。彼は、その古老が作業の手順をいつも頭の中に入れているのを驚異に思ったという。
確かに農業のエキスパートたちには知恵がある。それは多分、農業における諸々の知識と経験によるものなのだろう。そんな人を師に仰げる彼は幸せ者だ。初めて手掛けたというキヌサヤの今後の成長ぶりを見に、いつかまたここを訪ねてみようと思う。

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