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石積み2010/11/07

堤防回収工事

「伴七」オジサンは、今はもう船に乗ることはないらしい。最近は他の仕事で忙しい息子さんが、たまに漁に出るときなどはご本人もその気になるらしいが、それでもかなり弱気になっているようです。経験は豊富でも、力仕事は若い人にかなわない。

25,6のときはポンプ小屋からポンプ車を引っぱり出して、火事の現場へ得意になって素っ飛んでいったものだと目を細めます。ポンプを押し続けるのも大変な力仕事です。

稲取漁港が昔と比べてずいぶん小さくなったと言う話はよく聞きます。“伴七おじさん”はこの港には立派な岩が海中にあって、子どもたちはそこまで競って泳いだものだと言います。例のあの石だなと、その時は名前を思い出せないまま聞いておりました。“トンガリ”や“チョウベイ石”のことでしょう。ウマ石というのもあったそうですね。

目の前では船揚場や堤防の工事が進んでいます。工事船のエンジン音が聞こえてきて何をしているかと思ったら、人が海中に潜って基礎工事をしているのだそうです。堤防には土嚢が山になっています。

その堤防もいずれ壊されるそうですが、良く見ると石垣の上はコンクリートで補強されています。この石垣は“伴七”さんたちが築いたものだとのこと。稲取の石垣については特に山の手の入谷や水下で、人家のものやミカン畑のものにしてもよく見かけます。

いずれも見た目にきちんとした石垣で、堅固なそれは立派な芸術品でさえあります。これを築いたのは、もちろんその道の職人さんだったのでしょうが、稲取の人たちは農漁業をしながらもせっせとこしらえたのだと“伴七オジサン”は言います。

今の役場の辺りは昔は砂浜で、市場西側のポンプ小屋の脇にある石垣も当時築いたものが今でも残っているのが、この東町のお仮所からも良く見えます。

それから、正定寺前の船揚場に石垣がぐるりとあるのは、関東大震災のときに船が人家に飛び込んだからだと聞いて驚きました。海側の家の造りが格子状の幅広の板を打ち付けた恰好になっているのも、石垣が出来る前のそうした災害に備えたものだったのです。言われて初めて気がついたことでした。

伴七オジサンは東京赤坂の生まれ。戦時中の疎開でこの稲取のおふくろさんの実家に身を寄せたまま、おやじさんが早くに亡くなったこともあって、この地に居ついたのだそうです。来た当時は中学一年生で、以来、数十年の歳月をこの港で過ごしたわけです。

20年前に大修理した650馬力の船はエンジンからレーダーなどの装備一式を取り揃えて二千数百万円かかったと言います。その借金も今は払い終わって悠々生活の伴七オジサンに、どんな苦節の日々があったかは興味あるところです。

いつもここにいるからよ、と優しい目がいよいよ細くなりました。今度はその話を聞いてみたい。漁に出たときの話も。