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浅間山2012/12/12

浅間山頂上の土嚢
白田の農家の方に志津摩でお話を聞きました。

「浅間山には学校の遠足で登ったよ」
「稲取では“水乗り”か“オキノハラ”ですね。桃野にも行ったらしいけど」

「浅間山の山焼きは白田でやったんだ。あれはね、ワラビを採るためだったんだよ。昔は食べ物に不自由したからね。そりゃあ、カヤや草取りして牛馬の飼料にもしたさ。畑にも使ったよ」
「細野高原と同じことをしたんですね」

「浅間山の山焼きは今は道路が白田から上がって来てるだろ。あの辺りから周りをぐるっと丸焼きにしたんだよ」
「白田側だけじゃなかったんですね」

「山焼きは恐いよ。一度、火の手が里まで下りてきて大変な目にあったことがあるんだ。それ以後だよ、取りやめたのは」
「防火帯を設けて慎重にやっても、ときにはそういう危険なことも考えなきゃいけない」

「あの神社かい。あの山は昔から白田で管理してた。白田の人がお祭りしてるんだろな」
「あそこへ登ると、いつもお花が活けてあるし、塩が一袋供えられている。3,4年前はよく野菜がならんでいたけど」

谷戸山の石切り場2012/12/14


伊豆大川の谷戸山の石切り場を見て参りました。
 


昨夜は天城の山を攻めようか、と考えあぐんだ末に結局選んだのが谷戸山でした。ところが、谷戸山はどこにあるのか地図上ではだいたい判るものの、築城石がどこにあるのかは皆目見当がつきません。そこで、先ず奈良本の図書館に寄って調べることにしました。
 


しかし、郷土史等の東伊豆町関係の本を片っ端から手に取ってみましたが、谷戸山の石丁場のマップは見つかりません。係りの方や館長さんに訊いても埒があきません。仕方がないので先ずは歩ける所を歩いてみようと、大川の公民館までバスに乗り、そこから歩き始めました。


実は公民館前の観光案内マップが大まかでも大分役に立ちました。とにかくその示す方角へ行ってみようと云う訳です。それと、人の姿をあまり見ない民家の並びのなかで、年配の方が一人軒先で仕事をしているのに出くわしたのはラッキーでした。
 


お蔭で北川へ向かう旧国道から分かれて別荘地へと続く道へ容易に入ることが出来たし、更に、ミカンの収穫に来たオバサンからも有力な情報を頂くことが出来ました。


先ずはその道に入って間もなく道端に矢穴の跡がついた石が迎えてくれます。いきなりですから、これには驚きました。更にその先の坂の途中には、無人の民家の庭先に築城石の見本のような立派な畳石(角石)を発見。刻印も見てとれます。その後、少し戻って教えてもらった通り、沢沿いの道に入ると、直ぐに道端にこれも立派な畳石が蔓草に覆われていました。



そして沢を渡って山へ入ると、石段がずっと上まで続いており、その両サイドには大きな石が点々と時には固まってそこかしこに見ることが出来ます。いたる所にある石が矢割りした跡形を残しているのです。
 


石段は尾根に乗るまでとぎれとぎれに上へと伸びていました。尾根に乗っても、大石があちらこちらに居座っています。この山は岩だらけの山なのでした。


さて、飽きずに尾根を追って更に高みを目指すと、ついにコンクリート舗装の道路に出てしまいました。そこは奈良本の別荘地でした。何とすぐそばに足湯まであります。かくして石切り場の探索は終了です。
 


足湯は絶好の昼食場所でしたが、足を浸していられないほどの熱さだったのは残念。休憩後は別荘地の中を抜け、熱川に向けてのんびりと舗装道路を歩き片瀬白田から電車に乗って帰宅。



投票と散歩と2012/12/16

風船唐綿
きょうは衆議院選挙投票日。そして好日。いつになくカメラなしで出ました。充電するのを忘れたからです。手持ち無沙汰とはこのこと。何か忘れ物をしたようで、落ち着きません。この先、決定的シーンが目の前に現れたらどうしよう?まあ、その時は目に焼き付けておきましょうか。

先ずは国道から旧道へ。今月の成就寺のお題目を読む。「心が落ち着かないのは常に人と比べる自分がいるからだ」というような意味の文句でした。なるほどなと思いながら旧道に出ると、ザックを背負ったランナーが二人やってきました。寄り添って一緒に走りながら訊きます。

きのう伊東から白田まで走り、きょうは白田から下田までゆくのだと言います。少し前をゆくのは若干お若い女性で、この男性は70歳前後のアスリートと言っても良い風体。だいぶ走り込んだ様子の贅肉を削り落とした体つきです。恐れ入りました。

朝市は人でいっぱいでした。いつもお昼近くに来ているので意外でしたが、朝市はやっぱり朝一が賑やかで雰囲気は最高。でも、きょうは投票所へ。こちらは閑散としていて、係りの方々の頭数だけが目立ちました。

役場から港を左回りに歩きます。二人連れの後ろ姿が何組か見受けられたのは投票を済ませた人たちなのでしょうか。きょうは久しぶりに工事中の箇所を歩いてみます。立ち入り禁止の立て看板を無視して沿岸をゆきます。道路は殆ど出来上がっていました。あとは海際の側壁を化粧することでしょうか。

“はなれ”を回って志津摩へゆくつもりが、急に気が替わって立野の台地に上がってみたくなりました。岬の館から八幡様の坂を上って右手に背の高い“千年の松”を見ながら畑中の細い踏み跡をたどり、台地に上がりました。ここは北に優れた景色が展開している場所です。

右端に“ふれあいの森”の小鳥のランドマーク、その背後に3基の風車と大観覧車、浅間山、箒木山、その隣のバリカン山の後に万三郎が三角の頭をチョコンと出し、そして三筋山と細野高原の右奥に連なるのは登リ尾山の尾根でしょうか。

三筋山、大峰山の左後方に多分、天子平の別荘地。その手前には屋根の形の見高山から見高尾根のコブが二つ河津方面に落ちています。しばらく佇んでこのパノラマに見とれていると、熟年カップルが上がってきました。河津から来て朝市会場に車を留め、バス通りからぐるっと一周してきたそうで、灯台に上がってから朝市会場へ戻るとのこと。

その後、ホテル勤めだと言うオバサンがトレーニングウェア姿で後を追うように上がってきました。しばらく一緒にこのパノラマを楽しんだあと、私の方は“お塚公園”経由で山田書店の脇を通り、二つ掘りへ向けてガードをくぐりました。

ふと、自転車を押して上がってゆく二人の姿が目に入りました。ヘルメットと自転車競技用のスーツで決めたカップルでした。二つ掘りに上がった所で姿を失い、追いつけないだろうなと思いながらも急な坂を喘ぎ、水下公民館を過ぎて“こころ介護”の前でついに追いつきました。

どこまで行くのか訊くと、きょうは下田へ行くと言います。実はこの二人も先ほどの二人のランナーと同じグループだったのです。千葉県の流山在住の方たちで、きのう電車で伊東まで来て白田の民宿に泊まったのだそうです。きょう全員が下田に合流して帰ると言うことでした。

それぞれが銘々に歩いたり走ったり自転車に乗ったりの自由な形で、伊東から下田を一泊二日で目指すグループでした。グループでこんな楽しみ方もあるのですね。

山神社先の農免道路をゆくと言う二人と別れて、きょうは散歩の足は延ばさず、栄昌院経由で一望閣、中川の畑へと下ります。最後に東田の上で年配のカップルにお会いしました。“じゅうないさん”の寄合いだったらしい。月に二日の会合があるとか。足元に気を付けながらも、歩きで往復出来た幸せをかみしめているような二人でした。

「南木曽の木地屋の物語」2012/12/17

「南木曽の木地屋の物語――ろくろといたどり」松本直子著 未来社

木地師(広辞苑)
轆轤(ろくろ)などを用いて木材から盆や椀などの日用器物を作る人。木地屋、ろくろ師。

著者によれば木地屋の先祖は琵琶湖東岸の近江の国愛知郡東小椋村だそうで、材料となる優れた木を求めてそこから日本全国へ散らばっていったという。矢筈山の麓の「鹿路場峠」はどうやら木地屋にちなんだ名前らしい。つまり、伊豆にも木地屋が移り住んできたということです。

明治の時代になってから彼等は南木曽に定住するようになり、浮き沈みをくりかえしながら連綿と木地師の技と心を伝えてきました。本書は木工を学ぶために木曽福島に来て、そこの木地屋に教えを請うようになった著者がやがて木地屋の昔と今に魅せられ、その後、南木曽の漆畑を中心に多くの人と交流した記録です。

「・・・体中をめぐる血脈のような、人々が行き交う道が木曾の山々にはあった。昔そこには、自然の移ろいとともに息づく植物や動物、人などの命の蠢きや、沢を駆け下る大蛇や龍王がいつも身近に感じられたことだろう。三百六十度を山々に囲まれたドームのような木曾谷は、山に生きるたくさんの命の息吹の感じられる躍動感あふれる小宇宙なのだ・・・」

これを読むと、著者の木曽谷に寄せる思いが伝わってきます。また、南木曽の「蛇抜け」の話しがおもしろい。蛇抜けとは山津波や土石流のことだそうです。南木曽には蛇のついた地名が多いらしい。そういえば、南伊豆町に「蛇石」という地名があるが、山から大岩が押し流されてきたことから付いた地名なのかもしれません。

それから、「霜月新月の日に伐った木は質が良く丈夫で長持ちする」という言い伝えが南木曽にあり、実はドイツやオーストリア・チロル地方にもあるということです。

以上のようにいろいろと啓発される話が詰まった本ですが、何よりも木地屋とそのふるさとへの著者の深い愛着が感じられ、一種文学書を読んだような感動を味わいました。

イソヒヨドリと油揚げ2012/12/18


伊豆稲取に来てからというもの、それとなく聞こえてくる野鳥の囀りが異郷に遊ぶ徒然を暫くの間慰めてくれたのを思い出します。春には、一歩外に出れば頭上の木々の枝からウグイスが突然、あの広がりのある温かな音をたてて驚かされもしました。
 


とりわけ印象深かったコトリと言えば、やはりイソヒヨドリでしょう。この地に来るまでは遠い昔、三浦三崎で初めてその美しい姿を間近に見て感動したものですが、それ以来たまに千葉の海岸で見かけるぐらいのトリでした。
 


ところが、稲取では磯は勿論のこと、民家の屋根の上とか軒下で普通に見られるのには驚きました。それがまた例えようもないほど美しい声で囀ります。しかもその囀りときたら、こちらが音を立てずにいると際限もなく何時までも聞かせてくれるのです。
 


今は冬に入りその囀りもなかなか聞けません。しかし小春日和には、ときに機嫌よく自慢の喉を披露してくれることがあります。そういうときは、なんだキミの実力はそんなものかね、と声をかけてやりたくなります。勿論、激励の意味です。

 
ところで、きょうは昼頃になってアラシクを通ったら、糀谷旅館の玄関先でイソヒヨドリが油揚げをつついているのに出くわしました。距離は2メートルくらい。さすがに獲物から少し離れて警戒しています。こちらも立ち止まって動きを止めました。
 


しばらくじっとしていると、イソヒヨくんはまた油揚げに近づきながらも首を横にして警戒をおこたりません。でも、その仕草が実に可愛いのです。そっとカメラを向けても立ち去る気配はありません。油揚げは一枚分そのままでしたから、その魅力には勝てなかったのかも知れません。

 

糀谷さんでは障子の貼り直しのため、きれいにした桟を何枚か立てかけてありました。今はあちこちのホテル、旅館でこんな風景が見られるようになりました。いよいよ年の瀬が迫ってまいりました。

イソヒヨドリ