<><><><><><><><><><><><><><><><><><>

角力塚の”アイヌの墓”2011/08/07

アイヌの墓?
「ああ、あのお墓ね。コケシみたいなものよ。すもうづか(角力塚)は本当は“すくもづか”と云うの」

今朝は一望閣から吉久保へまわって、たまたま畑の草取りしていたオバチャンからその“すくもづか”の家の場所を聞くことができたので、思い切って訪ねてみることにしました。

“山神社の下の農道にアイヌの墓があるという”話は、monma さんから初めて聞いて以来一年がたちました。その間、近くの農道をぶらついたりして探したのですが、埒があきません。ただ、ミカン畑のなかにあるに違いないと見当をつけただけでした。

志津摩の風景を一年間にわたって写真で拾ってきて、今一応の区切りができ、さて次はと考えたとき、この一年前の宿題に思いあたりました。今年は入谷にするか・・・。

畑から上がってきた角力塚のご主人がわざわざ案内してくれた件の墓は、入谷道からミカン畑に入ってすぐの場所にありました。一坪位の広さを小石で囲った中に石柱が二つ並んで立っています。一つは四角柱の上に円球が一つ、もう一つは円球が二つ乗っています。なるほど、コケシのようにも見えます。それぞれに榊が供えられていました。

「もう20年前になるかな。明治大学、法政大学などの歴史研究の学生たちが見せてくれとやってきましたよ。でも、はっきりしたことは分からず仕舞いで、鎌倉時代のものではないかということだけだった」

「私らが子どもの頃に聞いた話では、ここでアイヌの人たちが相撲をとっていたので角力塚と名前がつき、この墓はその人たちの墓だということだった」

「そのうちに近畿大学の先生がやってきて、この墓の上の部分を掘らせてくれといって、ここのXXXという業者に掘らせたけど、特にこれといった成果は出なかったようだな。でも、それはこの墓云々ということではなく、例の飯盛山=卑弥呼の墓説の関係からのことだった」

この辺一帯は平らな台地で何をするにも優れた場所です。お宅はこのミカン畑の更に上の部分にあり、平らな場所が生計を得るための場所として確保されています。ここには昔、庄屋が住んでいたらしいとも聞きました。入谷の三大家が入植するだいぶ前の話です。

山坂が多い入谷にあって、そんな好条件の台地に大昔から人の関わった歴史があるのは必然でしょう。さて、何がしかの発掘作業でも手がかりが得られなかったとして、このアイヌ墓説という突拍子もない話にロマンを引きずってゆくとしたら、monma さんのご友人の説明にあるようにアイヌやアイヌ語を調べてみることも、その一助になるかも知れませんね。それと、墓石の形状からの割り出しも。