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伊豆33観音巡り2の3 ― 2014/08/06
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松崎町牛原山の標高は236メートル。稲取の“バリカン山”(送電線鉄塔第6号が立つ山)が約230メートルだから、大川橋あたりから成就寺の坂を上り、国道を横断してそのまま権現線遊歩道に上がり、権現さんの一の鳥居の左手前から古い道を辿って、或いは拾って山頂までゆくようなものだ。足が達者な人でも、1時間前後を要するアルバイトだ。
それが前もって分っていたら、今回は敬遠しただろう。しかも、この暑さの中、水筒もオニギリもザックにはない。とにかく、町の遊歩道であることから、それなりの道であることを信じて「絹の道」に分け入ったのである。
コンクリートの道は50メートル続いていただろうか。その先は草の生い茂った道が待ち構えていた。しかし、道は細くなったがはっきりしている。左側(北)は緩やかな谷の形状で右(西)側が山である。道は山腹を巻くように南に向っている。
10メートルも行かないうちに、右に古い石段があった。右サイドは石積みで固められている。躊躇わずに上がってみると、そこは50坪ほどの広場で、朽ちかけた小屋の軒下に卒塔婆が何枚か立てかけられていた。他には何もない。先ほどの看板によれば「相生寺跡」まで10分なのに、まだ5分も経っていない。
元に戻って、先を行くとまた僅かで石段があった。今度は狭いが10数段もある。上がってみたら、新しい五輪塔と古い墓石が10数個も並んでいた。しかし、ここが相生寺なのか、何も証明する物がないので分からない。更に上へ踏み跡が続いていたので追ってみたが、この墓石のある場所が相生寺跡である証拠は見つからなかった。
また元の道(絹の道)に戻って先へ進む。そして、いよいよ深く抉れた山道が斜度を増して山腹を直接辿り始めたのを覚悟した。頼朝と文覚上人の相生寺跡探索は多分終わったに違いないと内心感じながら、それでも先へ続く「絹の道」から撤退することなど少しも考えることはなかった。
深く抉れた道は即ち古道であることの証で、名前から絹を運んだ道、そう言えば、ご当地は養蚕が盛んだったことを思い出した。その抉れた道には枯れ葉が堆積して酷く歩きにくい。こういう道は踝まで覆う登山靴を履くべきだが、今回は普通のウォーキングシューズなので心もとない。
幾度か曲折を繰り返しながら高度を上げてゆく。頭上は木の枝が張りだして太陽を遮ってくれている。完全に森の中に入った。日傘はたたんで杖代わりに使いバランスを取る。高度を上げてゆくと抉れた道はなくなり、石段がところどころに現れ出した。同時にヤブも通過するのに梃子ずる程の所も出て来た。
クモの巣を払いながらの格闘を我慢してようやく展望台に着いたのは、円通寺を出てから40分後のことだった。時刻は12時を過ぎている。立派な東屋のベンチがあって有難い。ここが展望台で、松崎の街並みが眼下にあった。歩いてきた松崎高校の白い校舎も見える。そして、松崎港、堂ヶ島。一級の展望台である。
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さて、充分休憩を取って展望を楽しんだ後、次の目的地、普音寺方面へ下ることにする。山頂の公園には、先ほどの伊那上神社の脇から自動車道が上がって来ていた。この高台は広く、アスレチックや芝生広場、その他いろいろな広場を楽しむことが出来る。春秋には大勢の家族連れが訪れるはずだ。
途中、金沢遊歩道の降り口を見つけ、これが岩科地区への唯一の道であることを確認。この道もやはり古道のようだ。全体に急な細い道が続き、ザラ道の斜面で2回もバランスを崩して転倒してしまったのは我ながら情けない。ステッキ代わりの傘が把手の部分が曲がってしまい、元に戻したら折れて使い物にならなくなってしまった。
それでも、道は入山側の「絹の道」よりはずっと良く、ヤブは殆どなかったのは助かった。ナマコ壁の大きな土蔵から民家が続き、岩科川に沿った121号線は間もなくだった。しかも、国の重要文化財岩科学校は直ぐ近くである。(つづく)
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