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五十尻川の水門 ― 2015/02/05
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「こころ介護」の先から西方向へ急坂をミカン畑の中へ下りて行くと、タルガネや爪木崎を遠望することが出来ます。ここを北方向に水路が続いていることを確認して、一旦、通りに戻ります。
そして「二葉苑」の脇から水路を再び追って行きます。上田代の新開地の脇につづく尾根道を上がってゆくと、左に大きなハウスがあって正面の屋敷で道はストップ。そこでミカン畑に上がる小道を水路に沿った形で追跡すると、とうとう道は無くなりました。
しかし、尚も水路のざわめきを下に聴きながら進んで、ついに再びコンクリート舗装の小道に出ました。ここにもハウスがあります。そして道なりに下って行く途中で水路を再確認してから、民家の前を通って入谷道に出ました。栄昌院の直ぐ上でした。
次いで、長坂の終点にある賽の神様の石壁から追跡を再開。民家の前を上がって更に下って行くと、ミカン畑を右に、左に水路を見ます。見覚えのある風景が前方にありました。志津摩川はもう直ぐ近くです。そしてついに水下の水車を回す水源に到着。
途中、町の看板に、五十尻川の水門を閉じていると記されていたが、二つの水門は共に9分くらい閉じられており、少しだけの水が流れていました。志津摩川本流も水は少ない。
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ところで、現在はコンクリートの用水路となっていますが、この用水路を最初に建設するに当たっては多くの人の労力が必要だったことは当然で、その一端を“堰掘”の老婆から聞くことが出来ました。
老婆はこの家の6代目にあたるそうで、昔チフスがはやった初代村長、田村又吉さんの時代に西山五郎医師の助言を得て水道を敷設することになり、堰の沢のこの地の工事が始まったと言います。そこで付けた屋号が“堰掘”だったのです。“上の堰掘”が田村さんで、“下の堰掘”が鈴木さんです。
彼女の孫ジイサンに当たる人が相当の財を成したのですが、その子の総領の甚六の言葉通り家運が傾き、奈良本に養子に入った次男のリクエストで謂れのある銘刀を蔵出しして、その子の出征に同伴することに。その際、刀鞘はサーベル用に改良された。大陸に渡ったのは刀だけではなく、馬も供出されたということでした。その後、その子の戦死とともに、その銘刀の行方は杳として分からない。
用水路探索の最後に思ってもみなかった話を聞くことが出来たのは幸いでした。






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