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またまた水車小屋2015/02/09

ダイコンの花だ! 入谷にて
水下に水車が幾つもあって、水を受けて回っていたことは多くの人から聞きました。かつての現場へも行ってみました。当時周りは殆どが田圃だったそうで、米を搗く場所がそれなりに必要だったことがよくわかりました。

水下の公民館を中にして、上流と下流に合計6軒の水車小屋が立ち並び、水車を回していた図は、回りに未だ家が立ち並ぶ前の時代には実に絵になる風景だったと思います。

ところで、水下にあったのなら、入谷にも水車があってもおかしくない、と考えるのは当然で、きのうまでに山神社の前の道を下った所に精米所があった話しを聞いております。

今朝は入谷の農家の方に会うべく、それぞれの畑を訪ねてみました。中川の畑のOさんは不在。それではと吉久保まで上がると、ミカン畑に85歳のMさんがいました。相変わらずお元気で、お孫さんと一緒に作業しておられました。

早速、訊いてみると、彼のお宅のすぐ近くに松本精米所というのがあったということ、しかも、先日ある方から聞いていたとおり、モーターを動力とした精米所でした。ある時期に水下(だったかな?)から来て、営業を始めたということです。

そして水車ならば規模は小さいが、中峰(なかみよ)さんの水車が回っていたと言うのです。ただし、こちらの水車は個人で使用していたらしい。往時、中峰橋から向畑にかけて一帯は田圃だったそうで、志津摩川の川べりにではなく、その少し上流から田圃の中にまで小さな水路を導いて水車を回していたらしい。

それと、東の隠居さん方にも水車があったということです。こちらのほうは比較的大きな水車で、山田川(大川)の水を引いていたわけです。ただ、いつ頃まで回っていたかは記憶がない、ということでした。やはり想像していた通り、入谷にも水車が回っていたのです。

帰りに、入谷出身の比較的お若いご婦人から聞いたお話しはMさんの説を裏付けてくれました。しかも、両方とも場所を特定できたのは何よりでした。彼女の近所では殆どがこの精米所を利用していたようです。彼女の記憶が鮮明であるということは、東の水車小屋が姿を消したのは、そんなに古いことではないようです。