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浅間さんへお参り ― 2015/09/10
支那事変は1937年から1941年12月8日の間の戦争で、真珠湾攻撃の日から太平洋戦争に拡大してからは日中戦争に名称が変わります。きのうは農家のOさんのお父上がこの支那事変という戦争に出征した話しをお聞きしました。
出征したのは他に二人の叔父も一緒で、いずれも終戦後、無事に帰還いたしましたが、戦争中の思い出の一つとして、浅間神社に母親に連れられて度々参拝した話しに興味を持ちました。
当時、Oさんだけでなく入谷の人たちが戦時下の祈願のために浅間山の神社にお参りしたというのは、特別の意味があるように感じられます。何故なら、その神社は浅間山の中腹の岩穴の祠に過ぎないからです。
と、ここまで書いてきてハッとしました。その通りであるならば、ルートは、水乗りまで来た後、今のスポーツビラあたりから尾根を目指したそうですから、その後はそのまま今の風車の丘を経由して浅間山に登ったものと思われます。
しかし、実は今思い出したのですが、Oさんは白田の来宮神社を浅間神社と勘違いしていました。白田の来宮さんは志理太乎宜命は(しりたおぎのみこと)を祀る神社です。「志理太(乎)宜命は三宅島にいます伊豆三嶋大神の后神・佐伎多麻比咩命の御子神であるとされる。佐伎多麻比咩命は三嶋大神との間に八柱の御子神をもうけたと・・・」
http://www.hunterslog.net/dragonology/sakubu/jinja_izu/shiritaogi.html
片瀬の片菅神社の祭神、片菅命(かたすげのみこと)は弟神だそうで、共に三宅島から“白田浜に来た”祭神です。上記のサイトでは白田の来宮神社の縁起について各方面から仔細に考証していますが、取りあえず浅間神社とは無関係の神社のようです。
多分、白田の来宮神社が稲取側からは浅間山を越えた麓にあるということから、次第に浅間山の神社と誤解することになったのではないかと考えます。だとすると、あらためてルートを再確認しなければなりません。
先ず、チュウチン山から浅間山に続く尾根に乗ったのが事実ならば、この尾根のどこからか、白田側に下りたはずです。現在風車がある丘のグライダー操作場に私は以前、白田側から2度上り詰めたことがあります。途中にはっきりした道らしい跡がありました。しかも、白田の人たちは稲取の水乗りへ行くのに、私が辿った道と交錯したルートを辿って“原野”に上がったと聞いています。
白田側から原野に上がるのに、他にも何本かあったようです。それは恐らく芝刈りだとか、山焼きした後のワラビ採りなどで原野に上がったのが踏み跡になったのでしょう。それから他に、白田側からこの尾根に上がるのに湯ヶ岡からもう一つの道があります。
赤川橋から迂回路に上がって稲取方向に行くと、間もなく「オレンジヒルズイン東伊豆」というペンションがあって、その脇の配水場からゴルフ場へ直接上がる道があります。この道はしかし、ワラビ採りだけの道ではなく、白田と稲取の交易の道だった可能性があります。
Oさんは、この道は昔からあった道だと言います。「南熱川別荘地」開拓で出来た道ではないと断言しました。とすると、O さん親子は水乗りから“背入りの平(せーりのてえら)”まで上がって、この道を下り来宮さんに参詣したことが考えられます。
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しかし、入谷の皆さんが“浅間さん”(実はキノミヤサン)にお参りしたとすれば、やはり東浦路を歩いたのではないでしょうか。平並ハイウェー(入谷~クリーンセンター)の当時細々とした道から「背入りの平」までは確かに高度差はそれほどでもなく、負担は少なかったでしょうが、下りのキノミヤサンまでの負担が余りにも大き過ぎます。その点、東浦路を通れば負担は少なくて済むはずです。
東浦路を通る道と言うのは、字ムレにあった旧灯台(萩原スゲさんが守った灯台)を経由し、白田トンネルの白田側入口の付近に下りて来宮神社に至る途です。こちらの方が負担は少なく、当時、一般的な道だったはずです。
きのうははからずも、背入りの平から白田に下る道が昔からの道だったことがわかりました。しかも、戦時中に稲取から来宮参りがあった事実を今後検証してゆくのが楽しみの一つに加わりました。
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