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京浜間の輸送2015/09/03

稲取港

Yさんが京浜間の船に乗り始めたのは35歳のとき。50歳まで15年間物資の輸送に携わりました。所属会社は三菱倉庫でした。

彼がこの仕事を始めた年は東京オリンピックが開催された年で、まさに日本経済の高度成長期で、いくらでも仕事がありました。500トンくらいの船がはいると、ハシケが少なくとも50パイは群がったものです。彼の船は60トンあまりで、100トンを超えるハシケもいました。

彼が運んだ物資の中には金塊もあったと聞いて驚きました。この時には警察の厳重な警戒があったのを今でも覚えているという。枠に嵌められて厳重に梱包された大きなガラス板の輸送にも随分と気を遣いました。

コンテナ輸送では、アメリカからの小麦粉がありましたが、中には長期の輸送で横浜に着いたときには腐った異様な臭いのものも含まれていました。この小麦粉の仕事はやはり3年くらいで姿を消したということです。

好景気を反映して物流が活気づいていると、中には不正を働く者も出て来ていました。そんな時に、彼も身に覚えがないのに、税関に呼ばれたことがありました。もちろん、参考人としてです。でも、いい気分ではなかったと述懐していました。ちなみに、この当時の税関長はあの鳩山威一郎さんだったそうです。

稲取では、こうした京浜間の輸送に従事した人は私の知っている人だけでも5指に余ります。稲取で船乗りと聞けば、キンメやイカを釣る漁師とばかり思っていたのが、こうした輸送関係の方や大洋漁業の乗組員、そして遠洋航海で世界中を股にかけた人たちもいたのでした。