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上清水にも水車小屋2015/02/03

<中澤正男さんの絵の一部>
一昨日は水下の水車があったと思われる場所を確認後、直ぐ上の小田代から二葉苑を右に見て例の水路を横切り、半僧坊に下って、更にコーポ稲取脇のバス停入谷口に出てから、県道に入って交番の裏を探索してみました。もう一つの水車があったという場所探しです。

 

八代薬局から交番の脇の道へ入って行きます。この道は鈴屋、小学校へと通じている道です。道路は先細りですが、コンクリート道の下は水路であることが分ります。いわゆる狭いU字溝のような排水路として設けられたのではなく、川に蓋をした感じのものです。

 

ちょうど年配のご婦人がやってきたので訊いてみました。彼女が50年前に結婚してこの地に来たときには、水車など無かったということです。ただ、川がこの場所に流れていたのは覚えていました。その当時、家並みは現在とほぼ同じに建物はギッシリだった由。

 

その後、県道に戻って、食堂ヤシの脇から小道に入ってみました。このルートは小規模の排水路でしかなく、そこで、途中の駐車場から寿湯の方へ向かい、「まことや」さんと「おもちゃの松田」さんの通りに出ました。この通りには水路は完全にありません。

 

ちょうど「まことや」さんのご主人が何か作業しておられたので、お邪魔して訊いてみました。しかし、彼も水車小屋は見たことがないと言います。あったとしたら、やはり、先ほどの交番の脇を流れる川沿いだろうということでした。ただ、寿湯の前身が粉ひきだったと聞いて合点がゆきました。

 

粉屋がモーターを回して機械を動かしていたということは、多分、それ以前の動力は水車だったと考えられます。彼は昭和14年生れで、75か76歳です。先ほどのご婦人は50年前には水車が無かったと言ってましたが、70年くらい前に既に水車の姿はなく、代わって電動モーターの時代に入っていたということでしょう。

 

ところで、ここを流れる川は小学校の体育館の脇から流れ込んでいた、と先ほどの年配のご婦人が言ってましたから、その上をたどると多分、馬道に繋がるのでしょう。「稲取風土記」では、字堰掘の水が馬道の先から大畑方面と小学校方面に分岐していたと記されています。

 

従って、江戸時代に整備された水路網によって水車が、上流の水下で3台、そして下流の上清水で1台が回っていたということになります。この件については、もう少し調べてみましょう。


コメント

_ M ― 2015/02/05 17:23

小さい頃、麦ができると粉挽きに母と行ったのを覚えています。
挽いた”こがし”を砂糖と水に混ぜ食べました。よく口裏にくっついたのを覚えています。

稲取小学校裏は当時田圃でオタマジャクシやカエル、アメンボウを捕って遊びました。小学校と田圃の間には小川が流れていてヤゴをよく捕ったのも覚えています。現在は暗渠となっており当時の様子とは一変しています。

水下の水車小屋も覚えていますがどの辺にあったかは記憶があいまいですが水下と伊豆急線のトンネル上へ繋がっている道にあったと記憶しています。

_ inada ― 2015/02/05 22:04

Mさん、こんばんは
ギンジロバンジョさんの絵を見てから、水車小屋に魅せられてしまいました。水下地区の水路のラインにはもう一つ加わって、計4つもの水車が回っていたようですが、ごく近距離のところにこれほどの数の水車が回っていたというのは信じられません。需要がそれだけあったということでしょうが、具体的には米が搗きあがる、または麦の粉挽きの量と時間の問題が大きかったと考えています。それに利用する仲間の寄合の問題もあったかもと。
小学校裏で川遊びをされたとのこと、その川下の上清水にも水車があったということですね。もっとも、こちらの方はずいぶん前に姿を消したようですが。

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