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みたび水車小屋のこと2015/02/06

アロエとメジロ
土地っ子のTさんは水道敷設会社に勤務し、昭和38年頃、上田代に家を建て、4年後に結婚して奥様を迎えました。その自宅を建てた頃には一連の水車小屋の風景は見られなかったと言います。でも、彼はこの近くの出身なので、子どもの頃は水車小屋を度々見てきたのです。

Tさんは、水下公民館の上の水車は「こころ介護」の下ではなく、公民館の並びの貯水槽の裏にあったと言います。こころ介護の下よりだいぶ下方にあったということになります。

アラッコの通りで出会った散歩中の老夫婦Nさんに思い切って訊ねてみたら、公民館の近くにお住いの方でした。早速、水車小屋の場所を問うと、やはり、こころ介護の下あたりだと言います。以前はこころ介護の敷地と水路の間に細い道があって、その道を下ったところにあったとのことです。この話しは「二つ掘」のオカミサンの証言と一致します。

しかも、Nさんご夫婦はこの水下水系に合計6個の水車があったと教えてくれたのです。先ず上から、「こころ介護」の直下に“大門さん(奥様は「水落ち」さんだと主張)の水車小屋”、堂の前の上に“こうやの水車”、“堂の前の水車”、二つ掘の前が“となりの水車”、そして馬道の水道施設の手前に“前の家の水車”、最後に、小学校の北側に流れ落ちたところに“との岡さんの水車”。

ちなみに80歳を越したと思えるNさんは、寿湯の前身はモーターを回す精米屋で、水車は無かったと言います。そしてまた、山神社の前を下りたところにも、モーターが動力の精米屋が一軒あったそうです。この件については、また調べてみましょう。

第26番札所 修福寺2015/02/07

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第26番札所、修福寺は湊クリニックの北側にあって、先ず路地に入ると前方左手に大きな介護施設が目に入る。その手前右への道を行く。ここには「曹洞宗 飯盛山 修福寺」の案内標柱がある。更に前方に3本の道を確認したら、真ん中の道が参道である。なお、左側の道は駐車場に導かれる。
 左右の山門から石段を上がってゆくと聖域に入った感じになり、厳かで落ち着いた佇まいの本堂が迎えてくれる。境内に上がって庫裏に案内を請うたら、高校生らしき乙女が出てきた。あいにく住職は不在だという。代わって彼女が朱印を押してくれた。
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ご朱印をもらってから、本堂に回って納経する。ご本尊の脇に文殊菩薩の看板があるが、33観音札所としての本尊は十一面観世音菩薩だそうである。ただし、どこに安置されているかわからなかった。多分、御開帳されてはいないのだろう。

 

天井下の壁面に天女の舞の図が数枚掛けられていた。「知殿、知浴、知客・・・等の文字が貼ってあるが、何の意味かわからない。とにかく、般若心経をひと通り奉納して辞することにした。


第28番札所 大慈寺2015/02/08

南伊豆町下流
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次は第28番、東向山 大慈寺。
バス停下流で下車。小さな漁村の感じで、人の姿もない。目に入ったのは平屋の建物で、「下流漁業協同組合 天草倉庫」と一字ずつの看板が、この下流の象徴のように存在感があった。
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一枚の戸が開いていたので中を覗くと,ガランとしてただ柱のみが何本も空間を分けている。今は天草漁の時期ではないのかも知れない。台車のように大きな重量計が幾つか片隅にあった。

 

この隣の真新しい白い建物が伊豆漁協の南伊豆支所下流出張所。現在では伊豆半島は伊豆漁協で統一されているようだ。この脇から山の手に向って細い川があり、それに沿って進むことわずかで川から離れ、左への道を上がってゆくと、長い石段のある大慈寺である。裏山を背負った立派なお寺で、境内には鐘楼があった。
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第28番 大慈寺

 

庫裏に挨拶に回ると、ご住職が出て来られ、自ら直筆の上にご朱印を頂いた。その上、お供物の残りを分けていただき、本堂での納経にも親身な気配りが身に沁みた。

 

漁協の前に戻ると、その建物の一画にある待合所のような部屋に年配のご婦人が三人いて井戸端会議。波がまだ荒いので今朝は船が出ていないという。それから浜辺に干してある物は何かと問うと、あれは“ほんだわら”で、ここでは“モコ”と呼んでいるとのこと。

 

このモコは昔は食用にもしたが、今では正月用のお飾りや飼料、肥料に使われているらしい。しかし、この漁をする家も今は一軒だけと聞いた。持ち時間30分が尽きて、間もなくバスが来た。次は寺坂へ向かう。
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ホンダワラ

またまた水車小屋2015/02/09

ダイコンの花だ! 入谷にて
水下に水車が幾つもあって、水を受けて回っていたことは多くの人から聞きました。かつての現場へも行ってみました。当時周りは殆どが田圃だったそうで、米を搗く場所がそれなりに必要だったことがよくわかりました。

水下の公民館を中にして、上流と下流に合計6軒の水車小屋が立ち並び、水車を回していた図は、回りに未だ家が立ち並ぶ前の時代には実に絵になる風景だったと思います。

ところで、水下にあったのなら、入谷にも水車があってもおかしくない、と考えるのは当然で、きのうまでに山神社の前の道を下った所に精米所があった話しを聞いております。

今朝は入谷の農家の方に会うべく、それぞれの畑を訪ねてみました。中川の畑のOさんは不在。それではと吉久保まで上がると、ミカン畑に85歳のMさんがいました。相変わらずお元気で、お孫さんと一緒に作業しておられました。

早速、訊いてみると、彼のお宅のすぐ近くに松本精米所というのがあったということ、しかも、先日ある方から聞いていたとおり、モーターを動力とした精米所でした。ある時期に水下(だったかな?)から来て、営業を始めたということです。

そして水車ならば規模は小さいが、中峰(なかみよ)さんの水車が回っていたと言うのです。ただし、こちらの水車は個人で使用していたらしい。往時、中峰橋から向畑にかけて一帯は田圃だったそうで、志津摩川の川べりにではなく、その少し上流から田圃の中にまで小さな水路を導いて水車を回していたらしい。

それと、東の隠居さん方にも水車があったということです。こちらのほうは比較的大きな水車で、山田川(大川)の水を引いていたわけです。ただ、いつ頃まで回っていたかは記憶がない、ということでした。やはり想像していた通り、入谷にも水車が回っていたのです。

帰りに、入谷出身の比較的お若いご婦人から聞いたお話しはMさんの説を裏付けてくれました。しかも、両方とも場所を特定できたのは何よりでした。彼女の近所では殆どがこの精米所を利用していたようです。彼女の記憶が鮮明であるということは、東の水車小屋が姿を消したのは、そんなに古いことではないようです。

27番慈雲寺と29番正眼寺2015/02/10

.<正眼寺の天井の龍>
寺坂の正眼寺は石室トンネルを潜って直ぐの所にある。未だ時間は充分にあるので、手前の石廊崎港口でバスを降り、石廊崎港でゆっくりすることにした。伊豆に来た当初、石廊崎先端まで歩いたことがあるが、風の物凄く強い日だった。今回は穏やかなお天気で温かい。

 

駐車場の「長津呂歩道」の案内板を読むと、海に向って左側の小高い山が起点で、約1時間40分のコースとある。石段を上がると、途中に墓石があった。簾とも箸とも読めそうな文字以外ははっきりしない。でも、紋章から高貴な人の墓のようだ。

 

石段を上がりきれば、城山に出るのだろうが、今回は諦めて引き返す。港をぐるっと回ってから、食堂に入る。トコロテンを注文。出来上がるのを待つ間、昆布茶をいただいた。味が濃く美味い。トコロテンには乾燥した岩海苔が上に載って、これがまた美味である。

 

暫くして、注文以外にもう一つトコロテンが出てきた。大きめのサイコロにきな粉がまぶしてある。寒天自体が柔らかく、これもいける。店主は、この寒天は自信があるという。どうやら自家製らしい。聞けば、暇をみては海に潜るという。店内には重たそうな潜水服用のヘルメットが飾ってある。

 

石廊崎港にて
このヘルメットは真鍮で出来ており、30キロもあるという。彼のオバアサンが使っていたそうだ。こんな重い潜水服を着て潜るのだから、かなり深い所で漁をしたのだろう。この石廊崎ではキンメダイなどの漁は、現在では船が2ハイ、イカ漁などが4ハイでしかなく、漁師は少ない。

 

昔、石廊崎港は風待ち港として栄え、上方の廻船問屋の宿泊施設が複数あったそうだ。風が収まるまで自前の宿に投宿したわけだ。現在でも民宿として残っている宿があるという。XXX丸という名の民宿だそうだ。残念ながら、名前を忘れてしまった。

 

 

この石廊崎は城山といい漁業といい、もう少し歩いて知識を深める必要がありそうだ。何と言っても、伊豆半島の最南端である。埋もれた史実もたくさんあるに違いない。いずれまた来て見よう。

 

さて、第29番札所、正眼寺は寺坂のバス停の前に参道があり、石段を上がり、緩やかな坂を行くと、数本の大木に守られた先に本堂があった。寺の年配の住職は快く迎えてくれ、燈明も自由にあげて納経してよいと、お許しをいただいた。感謝。ご本尊は聖観世音。ただし、御開帳ならず。

 

次は27番慈雲寺。 寺坂から乗ったバスは吉祥から下田行きに変わり、下賀茂で下車する。慈雲寺は青野川を渡った右岸にある。本堂の格子の戸が8枚横に並んで、正面から見て立派な構えである。ご住職はお留守のようで、奥様からご朱印をいただいた。

 

下賀茂はいたる所、温泉の湯煙が立つ。今回は日帰り温泉銀の湯に一浴して帰る。
下賀茂温泉 銀の湯