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水乗りに巨大なヤグラが2015/09/06

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きのうは浅間山に登る途中、保育所の脇を通り多目的グランドまであがったら、その一角に巨大なヤグラが設置されているのに驚きました。先ず脳裏に浮かんだのは、温泉掘削?ボーリング調査をこんな所で?でも、出たらビッグニュース!ということでした。周りに人影はなし。きのうは土曜日でした。

 

その後、知人に聞いたら、3号井の配水場の近くなら水質・水源の調査ではないか、ということでした。そういえば、このあいだ町では水道の経営が厳しく、水道料金の値上げの問題が巷間で喧しかったのを思い出しました。

 

そこで町のHPを調べたら、町議会での町長と議員との質疑応答のなかで、この問題が取り上げられていました。町は既に熱川や奥入谷で探索ボーリングを実施していたのです。既に熱川や、奥入谷の熊口でのボーリング調査では結果が出なかったようで、現在、3号井配水場の周りの調査中(2015年7月現在)ということでした。

 

東伊豆町では人口減などにより水道料金の収入が減って赤字経営となり、料金値上げはやむを得なかったようです。そこで、値上げ前から行政として、お金のかからない水源の確保のため各所でボーリング調査をしてきたということです。

 

現在の水道は田町地区では、白田川上流を水源としてポンプアップによりアスド経由で送水しています。従って配水場が途中何箇所もあり、私は湯ヶ岡から“迂回路”に上って水乗りまで度々歩いていますので、それら施設にはお馴染みです。

 

このポンプアップに要する電力に替わって、高地からの位置エネルギーを活用しようと言う試みでボーリング調査が始まったということでした。

 

山野の水脈を掘り当てるということについては、私など門外漢には意見を挟む余地はありませんが、“感覚的”には、そういう目的ではどうも無理のような気がします。温泉でも探り当てようとするなら別ですが。多分、白田川依存というのは、硫黄の問題が気になるにしても、稲取では先人が見つけたこれ以上ない方策だったのではないかと思います。

 

アニマルキングダムからスポーツビラの間にかけて、道路際に汚水が噴き出して横の小さな川に流れ落ちていたのを以前、目撃したことがありました。この上に施設は動物園しかありません。この川の水はクロカンのスタート・ゴール地点の北側にある池に注がれていると思います。

 

つまり、3号井周辺で300m掘ると、この池より低位置になるので水質の心配があります。まったくの下衆の勘繰りですが、細野高原より南の斜面は今はもう無理なのではないかと思えます。だいたい水乗りあたりの公園等の水は“飲料にはできません”と但し書きがついているではありませんか。

 

現在の白田川依存から脱却する方策としては、各地域で井戸を掘るしかないのでは?それも、かなり深い部分の優れた水質の水脈を掘り当てるとか。それ以外には、やっぱり人口減を何とかしなくては。人口が減る前までは、町の水道経営は立派に成り立っていたのではなかったか。

 

つまり、水量確保については白田川の取水で充分なのですからね。現在の掘削調査が無駄な投資にならなければ良いのですが。


検査結果2015/09/07

大川端のヒガンバナ
きょうは外科・内科の診療日。
8月3日の胸腹部造影剤注入によるCT検査の結果は当日、主治医によって特に問題なしという所見が出ていましたが、数日後に出ているはずの精密検査の結果を書面で頂いてきました。4月7日の検査種:CTと比較したレポートです。

所見
直腸術後部に明らかな局所再発は指摘できません。
病的腫大リンパ節は指摘できません。
肝転移は指摘できません。
肺転移を疑う結節は指摘できません。
膵体部の小嚢胞、左腎の小嚢胞は前回と同様です。

診断
直腸癌術後、明らかな再発・転移は指摘出来ません。

要するに、4か月前の状態と比べて明らかな変化はない、ということです。一応ひと安心ですが、あらためて所見を読んでみるとガン患者というのは、再発・転移なしの診断が出た今日から、また将来に向けて同じ診断を獲得するために再スタートを切らねばならない、という思いをなかなか断ち切ることが出来ないものだと感じています。

志賀旦山の絵葉書2015/09/08

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先日知人から沼津の日本画家、志賀旦山の著書をいただきました。実は、立派なケースに入った中身は絵葉書48枚でした。沼津の「最新 郷土絵葉書」と題して、4題をテーマにしています。

 

沼津の富士と眺望

沼津の海・山

沼津の川・街

沼津の花と文化

 

今回は、この48枚の中で私が気にいった2枚を取り上げてみます。と言っても、この絵を論評するわけではありません。描かれた絵を鑑賞しているうちに、描かれた場所の特定に興味を持ったことをここに記すだけの話しです。。

 

先ず冒頭の絵について。三角オムスビの山を淡島と仮定すると、その右奥に富士山が描かれていますから、発端丈山と富士山を結ぶ線上にビューポイントを選んだのではないかと考えます。その上で高度差を考慮に入れて、発端丈山の手前の見晴台で描いたのだろうと特定しました。

 

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2番目の絵は、ハガキの説明によると狩野川で背景が牛臥山とありましたので、狩野川に架かる下流から2番目の橋、永代橋から描いたのではないか、でなければ、橋下の狩野川左岸の河原におりたのではないかと考えます。いずれも、地図を開いて時間を忘れる作業でした。

 

そうこうしていたら、この狩野川の南に香貫山、徳倉山、鷲頭山、太平山という山に目が移りました。調べてみると、これらがいわゆる「沼津アルプス」の山であることが分りました。だいぶ前に城山から葛城山~発端丈山を歩いた時に、市街地の中に浮かんで見えた低山の連なりを土地の人は沼津アルプスと呼んでいると聞いたことがありました。

 

そんなわけで俄然、興味が出てきて、この秋か冬にでも歩いてみる気になりました。最高の鷲頭山で392メートルです。全部踏破するのに約5~6時間だそうで、今はこれならリミット内にあります。思いがけなく、志賀旦山の絵葉書が夢を運んでくれました。


クロサギ2015/09/09

クロサギ
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午前中ずっと続いた雨空も、午後になると青空がぽっかり顔を出し、急にまた夏が戻ってきたかのように世の中が明るくなりました。それじゃあどうだ!で、外へ飛び出しました。

 

徳造丸本店前にある船揚場の水際に、そっと足を忍ばせている一羽のクロサギを発見。遠目にあれほど黒々に見えた羽が,至近の距離ではねずみ色に見える。目の色を見ると、やっぱりサギだ。でもクロサギは珍しい。

 

銀鱗が時折り光って、なるほど小魚を狙っているなと思った瞬間、その小魚に飛びついたのではなく、空の上に飛びたったのでした。近寄り過ぎたか、残念!

 

クロサギの脚はコサギの脚と同じく黄色い。そしてその黄色い脚を後ろに揃え、長い首をたたんで飛んでゆきました。
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浅間さんへお参り2015/09/10

伊豆大川の激流
支那事変は1937年から1941年12月8日の間の戦争で、真珠湾攻撃の日から太平洋戦争に拡大してからは日中戦争に名称が変わります。きのうは農家のOさんのお父上がこの支那事変という戦争に出征した話しをお聞きしました。

 

出征したのは他に二人の叔父も一緒で、いずれも終戦後、無事に帰還いたしましたが、戦争中の思い出の一つとして、浅間神社に母親に連れられて度々参拝した話しに興味を持ちました。

 

当時、Oさんだけでなく入谷の人たちが戦時下の祈願のために浅間山の神社にお参りしたというのは、特別の意味があるように感じられます。何故なら、その神社は浅間山の中腹の岩穴の祠に過ぎないからです。

 

と、ここまで書いてきてハッとしました。その通りであるならば、ルートは、水乗りまで来た後、今のスポーツビラあたりから尾根を目指したそうですから、その後はそのまま今の風車の丘を経由して浅間山に登ったものと思われます。

 

しかし、実は今思い出したのですが、Oさんは白田の来宮神社を浅間神社と勘違いしていました。白田の来宮さんは志理太乎宜命は(しりたおぎのみこと)を祀る神社です。「志理太(乎)宜命は三宅島にいます伊豆三嶋大神の后神・佐伎多麻比咩命の御子神であるとされる。佐伎多麻比咩命は三嶋大神との間に八柱の御子神をもうけたと・・・」

http://www.hunterslog.net/dragonology/sakubu/jinja_izu/shiritaogi.html

 

片瀬の片菅神社の祭神、片菅命(かたすげのみこと)は弟神だそうで、共に三宅島から“白田浜に来た”祭神です。上記のサイトでは白田の来宮神社の縁起について各方面から仔細に考証していますが、取りあえず浅間神社とは無関係の神社のようです。

 

多分、白田の来宮神社が稲取側からは浅間山を越えた麓にあるということから、次第に浅間山の神社と誤解することになったのではないかと考えます。だとすると、あらためてルートを再確認しなければなりません。

 

先ず、チュウチン山から浅間山に続く尾根に乗ったのが事実ならば、この尾根のどこからか、白田側に下りたはずです。現在風車がある丘のグライダー操作場に私は以前、白田側から2度上り詰めたことがあります。途中にはっきりした道らしい跡がありました。しかも、白田の人たちは稲取の水乗りへ行くのに、私が辿った道と交錯したルートを辿って“原野”に上がったと聞いています。

 

白田側から原野に上がるのに、他にも何本かあったようです。それは恐らく芝刈りだとか、山焼きした後のワラビ採りなどで原野に上がったのが踏み跡になったのでしょう。それから他に、白田側からこの尾根に上がるのに湯ヶ岡からもう一つの道があります。

 

赤川橋から迂回路に上がって稲取方向に行くと、間もなく「オレンジヒルズイン東伊豆」というペンションがあって、その脇の配水場からゴルフ場へ直接上がる道があります。この道はしかし、ワラビ採りだけの道ではなく、白田と稲取の交易の道だった可能性があります。
Oさんは、この道は昔からあった道だと言います。「南熱川別荘地」開拓で出来た道ではないと断言しました。とすると、O さん親子は水乗りから“背入りの平(せーりのてえら)”まで上がって、この道を下り来宮さんに参詣したことが考えられます。
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しかし、入谷の皆さんが“浅間さん”(実はキノミヤサン)にお参りしたとすれば、やはり東浦路を歩いたのではないでしょうか。平並ハイウェー(入谷~クリーンセンター)の当時細々とした道から「背入りの平」までは確かに高度差はそれほどでもなく、負担は少なかったでしょうが、下りのキノミヤサンまでの負担が余りにも大き過ぎます。その点、東浦路を通れば負担は少なくて済むはずです。

 

東浦路を通る道と言うのは、字ムレにあった旧灯台(萩原スゲさんが守った灯台)を経由し、白田トンネルの白田側入口の付近に下りて来宮神社に至る途です。こちらの方が負担は少なく、当時、一般的な道だったはずです。

 

きのうははからずも、背入りの平から白田に下る道が昔からの道だったことがわかりました。しかも、戦時中に稲取から来宮参りがあった事実を今後検証してゆくのが楽しみの一つに加わりました。