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稲梓から蓮台寺へ④2012/10/08

公孫樹


さて次の目標は諏訪神社。こちらはわずかな石段を上がって境内に入ります。上り詰めた右手にここにも大きなイチョウの木が立っていました。看板には大公孫樹とあって、下田市指定文化財になっています。公孫樹とはイチョウの木のことで、この樹は樹齢400年を数え、下田市ではこれ以上のものは見当たらないと書かれています。


境内を進むと、土俵の輪の先に本殿がありました。狛犬が両脇をかため、更にその脇に石灯篭がそれぞれ立っており、神社の風格を示しています。静かに参拝を済ませました。


横川に入ってから人に会いませんでしたが、人声が聞こえてきました。畑仕事を終えたオバアチャンが二人して引き上げるところでした。時刻はもう12時を過ぎています。


蓮台寺へ行くつもりだと言うと、それならすぐ向いの民家の脇道が蓮台寺へ通じていると教えてくれました。そして、その道の最上部に“てんぐさん”があるというのです。これは聞き捨てなりません。恐い思いをしたくはありません。


よくよく聞くと、どうやら「てんのうさん」のようです。横川にも天王さん信仰があったのですね。はからずも天王さんにお目見えできると聞いて喜んだのは言うまでもありません。しかも、この8月に例祭があったばかりだから道は綺麗になっているはずだよ、というのです。
 


「てんのうさんを右に見て峠へ向えば、○○さんの家のところへ出るよ」

つまり、そこから先は当然、車が通れる道に通じているはずです。諏訪神社からは向かいに低くない山が連なって見え、これを越えないと蓮台寺へはゆけないだろうと心配していたのがこれで晴れました。


オバアチャンに礼を言って歩き始めると、となりにこれもまた看過できない立派そうなお寺の門柱がありました。「神護山 大梅禅寺」と記されています。上の高い所まで参道が続いています。文句言わずに直ちに向いました。


15メートルほど前に進むと、右に六角石柱が立ち、左にお地蔵様が迎えてくれます。更にその先の山門をくぐり石段を上がると、ようやく本堂が正面に現れました。左右に立派な堂宇が並んでいます。


若い子が二人何やら仕事中の様子。声をかけると、これから撮影がはいってます、との返事。テレビ局の下請けが放映の材料でも集めているのかな。邪魔をしては悪いので早々に引き上げることにします。


さあ、それではこれより峠越えです。良い道がつづいてますように祈るような気持ちです。きょうはもともと山歩きのつもりはなかったのですから。

<多分、右の一番高い部分に天王社が鎮座していると思われます>

稲梓から蓮台寺へ⑤2012/10/09

彼岸花の入山口


オバアチャンに教えられた通り土蔵のある家の横を通り、小屋を右に見て山の中へ向います。山道に入ると、抉れた道が古くから人の往来があったことを物語っています。そんな道をしばらくゆくと切通しの新しい道に繋がり、旧道は左下の谷ぞいをゆく感じです。ここは新道に従い更に進むこと30分で道は二手に分かれました。
 




ここで右の新道を追ったのが間違いでした。この道は右回りに巻いて、しかもやがて下り始めました。あわてて戻ります。登り始めからクモの巣に散々苦しめられて少し落ち着きを失っているところでした。二股に戻ってみると、何と足元に小さな道標があるではありませんか!「天王社」と書かれた指道標が。


再び抉れて落ち葉や枯れ枝が積もった古い道をゆきます。歩きにくくても、しっかりした山道です。途中、婆娑羅山と思しき整った山が見えだしたところで、またまた道は左右に分かれました。


きょうは里歩きということで、地形図や磁石は持ってきておりません。感に頼るしかなく、その感もさえず信頼性ゼロ。左の歩きやすそうな道をとったのがいけなかった。間もなく、竹藪で苦労することになります。この道は左に巻いた道でした。


右の道が尾根をゆく天王社への正しい道だったと思われます。でも、引き返す気は全然ありませんでした。それなりにヤブをクリアしたあと、確かな道がその先に続いていたからです。赤いタマゴのようなタマゴタケ?を見つけたのも慰めてくれました。

 
結果的には尾根を詰めたほうがずっと早く山頂に出られたのに、「てんのうさん」がその山頂にあるとは限らないなどと、巻き道を敢えてゆく理由の一つにして、とにかく引き返さずそのまま進みました。
 


かなりの時間が経ったと思われたころ、ついにその山頂の反対側の尾根道に出たのであります。舌打ちをしながらその尾根道を、来た道を戻るような感じで登ってゆきます。ところがこの尾根道がまた倒木ならぬ倒竹で悩ませてくださいました。


もうここまで来ると引き返しなど出来るわけがありません。意地になって突進です。そしてついに先ほどの尾根道からの道に合流したのであります。やれやれ、ホーッ。このさきはわずかな急登で目出度く祠のあるゴールでした。


ここの天王さんは石祠だけの超々簡素なお宮さんでした。時刻は13時半。この里山に何と1時間半も苦闘したのでした。ま、何はともあれ、同じ天王さんどうしで仲良くしましょうというわけで、お邪魔してオニギリをいただくことにしました。


この小さな頂からは先ほどの諏訪大明神と大梅禅寺の堂宇がわずかに見えます。その北に見えるのはやはり横川の北の集落でしょう。婆娑羅山も見えています。今、地図を見ると、326mの高台に立っているように思えます。地図上に神社の印がないのが残念です。横川の村人が代々受け継いできた天王さんがここに鎮座しているのですからね。



さて、それでは尾根道の先ほどの地点まで戻ります。ところが一旦尾根に乗ったと思ったとき、竹藪に再び突入したのは正解でしたが、途中から枝尾根に出合ってそちらに下ってしまいました。既に下った正しい道をわざわざ登り返してまで、その枝尾根を選んでしまったのです。
 


結局、また当初の右巻き道に出たのでありますが、あのタマゴタケは食い散らかされていました。やはり食べられるキノコだったと思われます。でも、そうは言っても、採集しようとは思いませんでしたが。
 


再び尾根道を合せたあとはオバアチャンの言う下大沢の民家を目指します。間もなくミカン畑に出たと思ったら、お地蔵さんが立つ峠に到着しました。お地蔵さんの光背には左□□□□□、右□□□□□と文字が刻まれ、道標だったことが分かります。それから青面金剛明王像とその塔がそれぞれ一基ずつと小祠、計4基が峠を守っていました。

 
峠にはお地蔵さんと向かい合って小屋がありましたが、荒れるにまかされた状態です。直進の道は尾根を辿るかに見えました。今地図を見ると、相玉へ破線が通じています。“おふくろまんじゅう”のオバサンが言ってたのはこの道だったようです。


ここは右の坂を下りて行きます。すると、何とこんな山奥にボートが置き去りにされています。どういうことなのでしょうか?不思議に思いながら降りて行くと、ようやく民家に出ました。コンクリート舗装されたみちです。時刻は2時半。天王社から30分で到着。




稲梓から蓮台寺へ⑥2012/10/10


軽トラで上がってきた老夫婦に訊くと、ここは下大沢だそうで、そのまま道なりに行けば、大沢口に出るとのこと。しかし、こんな山深いところにちょっとした集落があるなんて驚きです。ついでに峠のお地蔵さんのことを訊くと、「なに、あれは鉄砲撃ちのたまり場だ。あそこでよく酒盛りをしていたね」もっとも、今は鉄砲撃ちも少なくなってそんなことはないと言います。
 


この先、道は右に左に曲りながら下っています。集会所のような建物の前で作業している人がいましたので声をかけてみました。この方は見るからに好々爺という感じの人で、ニコニコしながら流暢に説明してくれます。ガイドさんかと間違えるくらいです。


ここには「山里会」という組織があって、事ある無しに関わらず、いろいろとこの山里を守っていると言います。先ほどの峠のお地蔵さんたちもこの組織で守っているとのこと。集会所の前には消防団の小さな倉庫もありました。こういう山里では住民の連携が大事ですね。
 


それから、この道を西へ向えば、大賀茂にも一条にも、観音温泉にも出られるとの話です。そうと聞けば、歩かないではいられません。いつか是非足を伸ばしてみたいと思います。
 


これから下るから乗ってゆきますか、とどこまでも親切なこの方はこの地区の区長さんでした。礼を言って別れました。
 


大沢口まではかなり道のりがありましたが、初めての里山は飽きることがありません。途中、温泉の源泉井戸を通過して大沢口に到着。ここには地域住民用の温泉小屋がありました。

<大沢口 正面真ん中の道から下りてきました 青い屋根が温泉小屋> 


さて、次は予定通り天神神社へ向います。宿場街道かと思わされそうな雰囲気の通りを10分ほど歩くと、蓮台寺公会堂が目に入りました。その手前に石段が高く高く上っています。しかし、臆することなく合計117段を一気に上り詰めました。


 
境内はシンとしています。明日から例祭だと書いてありましたのに。ただ、花飾りが立てられてお祭りの雰囲気を演出しています。それと巨大なシイノキが何本か周りを埋めていました。特に、入口右の御神木は大石を抱いたまま天を衝いています。


先ずは本殿に参拝したあと、左隣の収蔵堂を覗きます。ガラス越しに大日如来坐像と四天王像を確かに拝観できました。でも、予期した通り、光の具合でその全容をじっくりとは観察できません。ここは写真を撮るだけにして、あとでパソコンで鑑賞してみましょう。ただ、うっかりして右の2体は撮影し忘れてしまいました。


先ずはとにかくこうして無事に天神神社に立つことが出来たことを喜ばなければなりません。あとはもう一度、田島整さんの記事を読んで写真と見比べることにしましょう。
 


天神神社に参拝後に今日の小さな旅を締めくくったのは、勿論、河内温泉金谷旅館の千人風呂でした。以上、ご退屈様でした。

ミカン運搬レール2012/10/11


入谷の古老のお話では昔、炭焼きの〇〇さんという方が発電所取水口の上に住んでいたことがあったそうです。今はもうその方の消息はわからないということですが、当時、そこへ上がる道が旧発電所跡からつづいていたと言います。きょうは入谷道を通った際、たまたまそこを探検してみたくなりました。


泉堂さんの脇の道を降りてゆくと、やはりまた猟犬に一斉に吠えられました。いえ、檻の中にいましたから安全です。4,5匹いたような、あるいはもっといたかも知れません。無断で闖入してきたのを責められているような気分です。


コンクリートの道は左にカーブして降りてゆき、沢のところで行き詰まりです。石垣を巡らして平らにしたこの敷地に発電所の建屋があったとのことで、前にもお邪魔したことがありました。発電所跡は今はミカン畑になっています。


坂道を戻って右にカーブするところに、用水溝に渡した小さな橋があり、その先に砂利道がつづいていました。この道を沢沿いに上流へと向かうと、橋が見えてきました。志津摩川を渡る橋です。ただし、丸太を2本渡し、その一本の木の上にミカン運搬用のレールを腰高に据えて、それが沢向こうのミカン畑のなかに消えています。小型の運搬車が手前に留めてありました。

ミカン運搬用レール


沢沿いの道はこの地点で消えています。林の中の深い籔を別けて登るしかありません。多分、赤松神社の西の貯水槽があった場所、今はハウス畑になっている横に出るものと思われます。


きょうはヤブの突入は控えて、丸太の橋を渡ることにします。レールには触らないように慎重に渡って対岸のミカン畑へ移りました。上にチラッと見えたのはカーネーションのハウスでしょう。大久保橋から大峰山~三筋山へ登るときにいつもその横を通っています。


さて、レールはミカン畑の隅を南の方角に水平につづいています。これを追えば貯蔵小屋か作業小屋に出るだろうと進んでゆきます。(畑に勝手に入ってスミマセン)


果たして、レールの終点の先に出口がありました。通りに出ると、やはり通いなれた大久保橋~養豚場~三筋山への道でした。いつもラジオをならしているハウスの前でした。


それにしても、ずいぶん長いレールでした。それだけ畑が広いわけです。収穫時や重い肥料の運搬には欠かせない手段でしょう。他の場所で運搬車に人が乗っているのを見たことがあります。


きょうは思いがけず、志津摩川の左岸から右岸へと渡ることが出来ました。護岸工事されていなかった昔は泉堂さんの近辺から、適当に渡って大峰山に出られたものと思われます。吉祥寺の元祖、瑞雲坊がこの辺りで川を渡ったのかと考えると感無量です。


「向井山テエッタ」2012/10/12

熱川幼稚園の運動会
久し振りに奈良本の図書館を訪ねてみました。たまたま隣の町立熱川幼稚園で運動会があって覘いたら、ちょうど綱引きが始まったところでした。片や幼稚園児たち、相手は太田町長はじめ、町のお偉方です。勝負の勝ちどきは園児たちにあがりました。思わず拍手。

さて、きょう私が選んだのは昭和7年発行の「郷土読本 稲取尋常高等小学校」という本です。尋常1年~6年、高等1年~2年に分けて資料収集や執筆を先生方のみでなく、生徒も一緒になって執筆した他に類を見ない編集となっています。

きょうは「尋常1年の巻」に載っていた素晴らしい詩を紹介します。


向井山テエッタ

向井山(ムケエヤマ)テーッテル
マダコッチャ テーンネエ

ナベブタ ブクデーテ
ヒガテーラッシェ ヒガテーラッシェ

向井の山に陽が照り出した
こちらには未だ陽はあたってない

鍋蓋が浮かび上がってくるように太陽が上がって
早く陽が当たらないかな 早く陽が当たらないかな

私の勝手な解釈。当たってませんか? いずれにしてもこの詩は秀作ですね。

もう一つ。

コホリトオウマ

オウマガアセオ ポッツリコ
コホリヒキヒキ ポッツリコ

マールイアセガヒカッテタ
四角ノコホリモヒカッテタ

オウマノアセガ コホリニナッタ
コホリガアセオ タラシテタ

お馬が汗を流しながら懸命に重い氷を引っ張っている
お馬の汗は氷がポタポタかいている汗のようだ

この詩の作者の観察眼は優れていますね。それと、お馬が大汗をかいていることと氷が融けていることを対比して、馬への愛情も伝わってきます。氷を引く(売る?)馬車が当時往来していたのですね。